saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「神秘家の道」OSHO 第八章 彼方なるものへの憧れ 1️⃣


English title : THE PATH OF THE MYSTIC, by Osho
神秘家の道 --- 珠玉の質疑応答録
講話 / OSHO
翻訳 / スワミ-パリトーショ
照校 / スワミ-アドヴァイト-パルヴァ
マ-ギャン-シディカ
発行 / 市民出版社

第八章「彼方なるものへの憧れ」Pp 152 ー 154

(質問)
私はしばしばあなたが、あらゆる子供はこの世に空っぽのマインドを持って、タブラ-ラサ(真新しい石版)としてやって来るのだとおっしゃっているのを聞いています。
にも関わらず、私たちが過去生からの記憶と条件付けを持ち運ぶことが、なぜあり得るのでしょうか?
これについて何か話していただけますか?



一つの区別が 理解されなくてはならない。
その区別とは、脳とマインドの区別だ。
脳は 肉体の一部だ。

あらゆる子供は まっさらな脳を持って生まれて来るが、まっさらなマインドを持って生まれて来るわけではない。

マインドとは、意識の周りにある 条件付けの層だ。
人は それを憶えてはいない。
だからこそ、不連続があるのだ。

それぞれの生涯で 人が死ぬと、その脳は死ぬ。
だがそのマインドは 脳から解放され、意識の上の層になる。

それは非物質的なもので、ある特定な波動に過ぎない。
だから我々の意識の上には、何千という層がある。


いつも私が、子供は タブラ-ラサであるマインドを持って生まれて来ると言うとき、私が言っているのは 脳のことだ。

マインドは 非常に古い。
存在と同じように古い。

それには 始まりはないが、終わりはある。

人が、何世紀にもわたって蓄積されてきたその層を、すべて捨てることができたその日、マインドは死ぬ。
それには 終わりがある。

同じようなことで 理解すべきなのは、光明には 初めがあるが、終わりはないということだ。
そこで人は、その二つを結ぶのだ。


マインドには始まりはない。
それは常に人と共にあった。
それから ある時がきて、人はそれを捨てる。

マインドの終わりが光明だ。

そこからは 光明が継続する。
それには 始まりがあって終わりがない。
その二つが一緒になって、過去から未来にわたる全永遠を覆う。


だが脳は、人が肉体に入るたびに生まれ、また肉体を離れるたびに死ぬ。
だがその中味はーーーそれこそがマインドだがーーーそれは死なない。
意識とともにとどまる。

だからこそ自分の過去生をーーー自分が獣、 あるいは樹木、 あるいは岩であったときのことさえーーー憶えていることがあり得る。

そのマインドのすべてが、まだその人のもとにある。
だが、心理学がマインドと脳の間に区別を設けないために、そして科学がどんな区別も受け入れないために------英語ではマインドと脳は、殆ど同意語になっている。
ときどき私が忘れて、脳という言葉を使う代わりに、マインドという言葉を使ってしまうのはそのためだ。


内なる実在への深い探索が為されてきた諸言語の中には、別々の現象を説明するたくさんの単語がある。

それらの言語の中には、どんなふうにしてもマインドと混同のしようもない、脳を現す単語がある。
英語の単語も、やはりサンスクリット語のマナから来ているーーーそれがマインドになった。

だが、マナは一つ一つの層を表す。
となると、そこには動物のマナも、 野菜のマナも、 人が通過して来ただけの数の、 別々の進化段階があることになる。


そしてサンスクリット語では、その全体は マナとは呼ばれない。
全体はチタムと呼ばれる。
それがチタムと呼ばれるのは、それが肉体の重要な部分、肉体の一片ではなくて、意識の重要な部分だからだ。

意識はサンスクリット語ではチェタナだ。
それがチェタナにまとわりつくために、それはチタムなのだ。

これらの言語は、単語に関して、その意味に関して明快だ。
だが、 その理由は明確だ。
彼らは働きかけ、その違いを発見したのだ。


チタムとは過去全体だ。
意識に集合的にまとわりついている すべてのマインドのことだ。
それは総て捨てられることになる。
そしてひとたびそれが捨てられれば、人の意識はまるで服を脱いだように裸になる。
この裸の意識こそが、実存(ビーイング)の究極の経験だ。


捨てられたマインドは、その人の脳の最下部に残っているだろう。
だから光明を得た人でも、それをもう一度見てみたいと思えば、その中を通り抜けてみることができる。
ちょうど自分の家の地下室に行って放り込み続けてきたガラクタを、ひと通り調べてみるように。


脳は最新の層だ。
だが、脳そのものは その層、 つまり内容ではない。
脳そのものは、ある機構に過ぎない。
それはバイオ-コンピューターだ。
コンピューターを買ったばかりの時は、それは空っぽだ。
何もインプットされておらず新しい。
それから人は、何でも自分が望むものをその中に入れ始めるーーー歴史、 科学、 宗教、 数学、コンピューターに試させたいと思うものどんなものでもだ。
コンピューターはそれを集める。

脳に記憶の機構があるのとまったく同じように、コンピューターにはメモリー-システムがある。
そして何かの情報がほしくなればいつでも、コンピューターにそれを聞けば、その情報を教えてくれる。

2️⃣へ 続く