saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」(13)

…( 無こそ ご馳走中のご馳走。
これ以上のものは もてなそうとしてもできない。
これこそ最後のご馳走、〈実在〉自身の 最後の味だ。
それは、 あたかも 神そのものを食べたかのような、ご馳走のなかの ご馳走。 )


“ 深く 心動かされた禅師が言った
そなた 多くを学んできたものよ------ ”


ここの学ぶは 知識のことではない。
禅では、学ぶことと知識は 違うと見なす。

このことを 少し説明しておこう。

知識は借り物だが、学び取る ということは あなた自身のものだ。

知識は、 言葉や言語、概念を通じて得られるが、学び取るとは、あなたの経験を通して 得られるものだ。

知識は常に 完了形だ。
何かを知ることで、 それは完了する。
学ぶことには けっして完了がない。
常に 途上にある。

学ぶこととは プロセスであって、休むことなく ずっとつづけられる。
最後の最後の瞬間まで、 人は 学びつづける。

知識は必ず どこかで止まり、エゴになる。
だが、学ぶことには 終わりがなく、謙虚なままでありつづける。


知識は 借り物だ。
あなたは 知識で 師を欺くことはできない。
あなたの言葉は 表面にとどまり、内側 深いところで、あなたの存在は 示される。

言葉で 自分を隠すことはできない。
師にとって、あなたの言葉は 透けて見える。

あなたが、 知っている として示すものが何であれ、師は その背後にある真実を 見逃さない。


この男 蜷川も、もし知識人であったら 一休に捉まっていただろう。
しかし、彼は 本当に学ぶ人間だった。
彼は 学んできたのであって、それは見せかけではなかった。
〈生命〉、〈実在〉から得た 多くの経験、彼は 多くを学び取ってきた。


“ そなた 多くを学んできたものよ------ ”

これは 禅の導師からとしては とてつもないことだ。
禅師たちは こうしたことを言うことに関して とてもケチだ。
禅師が こう言うとき、それは本気だ。

こんなことを言うのは、本当に 心動かされたときでしかない。
相手に 本物を 心底感じ取ったときでしかない。
そうでなければ、 言わない。


この逸話の内側を よく見なさい。

そして 自分を そこに並べて 感じてみなさい。

あなたは 学んできただろうか?
それとも知識を かき集めてきただけだろうか?


これを最も 基本的な法則として、けっして知識を通して 反応しないでいなさい。
反応ではなく、臨機応変に 対応することだ。

そうしてこそ初めて、あなたは 私に もっと近づく。
そうなったら、 ある日、私も あなたを奥間にみちびいて 茶をふるまうことができる。
そうでない限り、物理的に 私に近くなっても、なんの役にも立たない。


私はあなたに 目覚めをもてなさなくてはならない。
そして、ご馳走のなかの ご馳走も差しあげなければならない。
妙味なる 無をーーー


第八章「濃紫に染められた野辺」 終



「草 は ひ と り で に 生 え る (再版) 」 by OSHO

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