saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」(11)

(…頭で〈現実(リアリティ)〉に至ろうとするのは、まるで耳で見ようとするようなものだ。 それは不可能だ。
耳は 聞くことはできるが、見ることは できない。)


ハートを通して〈現実(リアリティ)〉に至ろうとするのは、手で 見ようとするのに似ている。
手は 見ることはできない。
しかし、手を通して、見ることとは どんなことか 一見は できる。

盲目の人は、もし愛する女性がいたら、その顔に触り、顔をかたどる曲線に触れる。
そのからだを触って、肌の丸みや 暖かみ、大理石のような その感触を感じとる。
こんなとき、 手でも、見るということの きらめきを得られる。

手は、見ることに近いものを ちらりと感じ取らせてはくれるが、厳密には 見ることとは違う。
手は、手探りすることしかできない。

だが、眼を閉じて 人の顔を触れば、その曲線を、 鼻を、 眼を、どんな顔立ちかを感じ取ることはできる。


詩人は、 手のようなものだ。

詩人は〈現実(リアリティ)〉の本性を 手で感じる。

ある種のきらめきが それによって得られる。

禅風とは このことだ。


真の禅人は 眼のようであって、手探りはしない。
手で触れる必要はない。

真の禅人は 見ることができる。



“ 禅師は その禅風にいたく驚き
蜷川を 奥間に通して茶をもてなした ”


ここにあるのは、人が 師に受認されたことを 示す象徴(シンボル)だ。
より親しく もっと近づくことを許されたのだ。


“ 茶を もてなした ”


茶は 目覚めを意味する 禅の象徴としてある。
茶は あなたをより敏感にし、自覚させる。

茶を発明したのは 仏教徒たちだった。
何世紀にもわたり、仏教徒は 茶を瞑想に役立ててきた。

確かに 茶は 役に立つ。
茶を 一杯、強いのを 一杯飲んでから 坐って瞑想に入れば、少なくとも 一時間は 眠気を覚えず目覚めていられる。

あなたは、 静かに ゆったりと坐ると、必ず眠くなる。
この眠気を避けるために 茶は役立ってきた。


茶の話は ボーディダルマ(達磨)に始まる。
ボーディダルマが 中国の Ta と呼ばれる山で瞑想していたときのことだ。

この Ta から 英語の Tea が来ている。
この山の名前は Ta 以外に Cha とも発音されていた。
インドでも 茶は、Chai (チャイ)とか Cha (チャ) と呼ばれる。


ボーディダルマは瞑想していた。
彼は 真に偉大な 瞑想者だった。


(12)へ つづく