saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」🔟

“ 蜷川- -宮城野- -秋- -花開きし野なり ”


ここで 理解すべきことがある。

雲は 現れまた消える。
これは 同じコインの両面だ。
花は咲き、そして散る。
これもまた、同じ現象の 二つの位相だ。

「在る」と「不在」は 対立するものではない。
それは、同じ 一つの事物の 二つの位相だ。
今は 花が咲いて「在る」だから紫野と 呼ばれる。
そして 花が去ったとき、人々は、これは、秋に咲いた あの紫色をした花が「不在」になった野だ と言うだろう。

依然 紫野であることに変わりはない。
紫野の もう一つの位相を、「不在」の相を 見ている。


こんな話がある。

昔、 一人の禅師がいたが、この禅師は 母親を非常に愛していた。
父親は 彼が禅林に入る前に死んだ。
禅僧になりたいと伝えたとき 母親はこう言った。
「私は貧しい上に、一人ぽっちになる。
お父さんは死んだし」すると彼は言った。

「僧になっても私は変わらず あなたの息子でいますし、あなたも私の母親でいてください。
私は 世を捨てはしません。
あなたは 何も失うわけではありません」

そこで母親は 彼が僧侶になることを許した。

息子は母親を 心から愛していた。
母親のために 市場に買い物にも行った。

人々は笑った。
「坊さんが買い物なんて、見たこともない」

仏僧は ふつう托鉢(タクハツ)して物を乞う。
この僧は 托鉢しないばかりか、肉や 魚まで買うことがあった。
人々は 彼を嘲笑した。 これは やり過ぎだ。

もちろん、僧は 自分のために それらを買ったのではなく、母親のために買っていたのだ。
母親は、尼僧でも宗教的な人でもなかったから、そういうものを 好んで食べた。
しかし、僧侶の息子が 魚などを買うのを指して 街中の人が嘲笑するのを見ると、彼女は 菜食するようになった。
それに、人々が息子の買い物する姿を見て 笑うものだから、「もう 行かないでおくれ。 わたしが 自分で行きます」と言うようになった。

彼は いつまでも 母に対して献身的な息子だった。

そのうち ある日、彼は、説教のため出かけて行ったが、留守の間に 母親が死んでしまった。

戻った彼は、かろうじて母親の 死に顔を見ることができた。
ちょうど人々が その亡骸(ナキガラ)を 墓地に運ぼうとしていたときだった。


彼は亡骸に近寄ると 言った。
「お母さん、行ってしまわれたのですね」
それから、自分自身で またこう応えた。
「そうだよ、息子や、私は からだから抜け出てしまったよ」
彼は 再び 言う。
「心配しないでください。私も まもなく肉体(カラダ)を離れることでしょうから」
それから彼は 返事をした。 母親の側からだ。
「わかった、お前を待っているよ」

僧は そこに居た人々に、
「私は 母に別れを告げました。
対話は終わりました。
葬儀は済んだのです。
もうこの身体を持って行って構いません」と言った。

誰かが訊ねた。
「私たちには 何のことか全く解りません。 どうしたんです?
誰に向かって話していたんですか?」
「母親の 不 在 にです。なぜなら それが、母の存在の もう一つの位相だから」

「しかし、では なぜ あなたが返事をしたんですか?」
彼は 言った。
「それは、母には返事が できなかったからです。
ですから、私が両方しなければならなかった。
不在なるものには 返事はできません。
だから私が、母の側から返事をしなければならなかったのです。
でも母は、前に い た のと 同じように い る 。
ただ、今は 不在の相の内に いるだけです」。



こういうわけで、 一休が、 “ それらが去りし後は? ” と訊いたとき、蜷川は、 “ 宮城野 秋 花開きし野なり ” と応えたのだ。

前と同じ 野、ただ 不在の相の内にあるだけ。

顕われているか 顕われていないか、存在しているか 存在していないか、生か 死か、こういったことは、同じ現象の 二つの位相でしかない。

選ぶべきことは 何もない。

選ぶ者は 愚かだ。
不必要に 苦悩に陥ることになる。


さて、内心 驚きながら、一休は 最後の問いを出す。


“ 宮城野にて- -何ぞ起こるかの? ”


花が去ったあとの 野はどうなる?


“ 蜷川- - 水は流れ、風わたり申す

禅師は その禅風にいたく驚き
蜷川を 奥に通して茶をもてなした ”


いいかな、 これは 禅風 であって、厳密に 禅ではない。
蜷川は 詩人だ。
しかも 深い理解をそなえた 偉大な詩人だ。

しかし、詩の世界の極致は、禅の世界の 入口にすぎない。
宗教の世界の 入口にすぎない。

禅風ーーー蜷川は 理解している。
ある種の きらめきを 経験している。

彼は 自分を開いているし、感じることもできる。
暗闇を 手探りで歩いてきて、ある種の質を つかんでいる。
自身の探求を通じて それに行き当たったのだ。
しかし、それは あくまで ちらりと 一見したのでしかない。
それは 時折起こりうる。



暗い夜、 突然 走る稲妻。

あなたは 一瞬 それを見る。

そして、 暗闇が戻る------

これが、偉大な詩人に 起こることだ。
彼は、まさに境界線上に立って、そこから 彼岸を見る。

それは あくまで ちらりと見ることにすぎない。
それは 禅風にとどまる。

では、禅風は いつ禅になるのだろうか?

それは、 単なる 一見が そうでなくなり、その人の 存在そのものになるときだ。
そうなったとき 人は、瞬間、瞬間を その内に生きる。
もう それは、ちらりと現れ またすぐに消えるものではない。

それは、人の 最も内奥の 存在のあり方、生き方となる。


それは もう走る稲妻ではない。
白昼のように、真昼のように、太陽は 空高くあがり、そこに とどまる。
暗闇が戻る 可能性は もうない。
それは ちらりと 一見するものではなく、その人の 一部となっている。
そうなったら、どこに行こうが、人は それを内部に持って 行く。
今こそ 内なる光が 燃えている。
もう 偶然に左右されることはなく、人は内部で ゆったり定着できる。
それは その人の 家になったのだ。



頭で〈現実(リアリティ)〉に至ろうとするのは、まるで 耳で見ようと するようなものだ。

それは 不可能だ。

耳は 聞くことはできるが、見ることはできない。


(11)へ つづく