saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」7️⃣

…(訪れは偶然なされることもある。)

誰かがあなたに 誰それという導師のことを語り、あなたは たまたまその近くを通りかかる。
するとあなたは こう考える。
ああ、 まだ映画に行くまでに時間があるから、ちょっと寄って、どんな導師(マスター)か 見てみよう。

もし偶然の訪れであるなら、その関係は 入り口のところで終わりにした方がいい。
どこへも 行き着きはしないから。


もしマインドが 議論好きなら、もしマインドが 自分の考えで いっぱいなら、あなたは 学生にはなれるが、弟子には なれない。
導師は 教師ではない。
導師は 学生を求めているのではない。
学校を 経営しているのではない。

導師は ハートの寺院を 創り出している。
ハートの神殿を作って、聖なる、神聖なる現象を この地上にもたらそうとしている。


一休は 感じ取らなければならなかった。
そして 非常に深いところまで 感じ取った。

この男 蜷川は、その気概を証明した。

本物だった。
蜷川は 反応しなかった。
彼は 師 一休に 応答した。

そして 師の問い求めたこと全てに、 彼は 全面的(トータル)に 応答した。
これらの応答は 美しい。
ゆっくり辿っていくがいい。


“ 玄関にて問答があった

一休- - どなたかな? ”


これこそ、求道の全てだ。 あなたは 誰か?

宗教は全て このことのためにある。

もしあなたが、自分が誰かを 既に知っているのだったら、それなら入門など 気にすることはない。

それとも、もしあなたが その無知ゆえに、自分の存在を、名前や姿かたちで 確認しているとしたら、名前や 姿と 自身を同化させすぎて、それで中身がいっぱいになっているとしたら、あなたは、 一休ほどの導師に 受け容れられるほど成熟していない。

もっとレベルの低い師に行ったほうがいい。
いや、 師というより、
「人間とは 名前でも かたちでも肉体でもない」などと 教えてくれる 教師のもとに行けばいい。

そういう教師に、導師が種を 植えつけられるような 哲学的土壌を作ってもらうことだ。
あなたは 教師のもとに行く必要がある。

だから 一休が まず初めに訊いたのは、あなたは誰か? ということだった。


“ 蜷川は応える。 仏法に帰依する者です。 ”


これは、自己主張のない本当に謙虚な態度だ。

彼は 自分の名前を言わなかった。


8️⃣へ つづく