saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」6️⃣

…( 対話は稀有な現象であり、美しい。 )

なぜなら 対話を通じて 双方が豊かになるからだ。
実際、あなたは話をする
それはディスカッションーーー対立し合って、私が正しい あなたがまちがっている と証明しあう 言葉の闘いか、それとは全く違う対話か のどちらかになる。


対話は、相手と対立するのでなく、むしろ互いに手を取り合い 助け合って、真理への道を見つけようと動き出すことだ。

それは、一体となること、協力し合うこと。
真理を見出すための 調和のとれた努力だ。
それは、どんなかたちであれ 絶対に闘いではない、それは友情だ。
真理を共に見出そうと 一緒に動き、真理を見出すために 助け合う友情だ。

誰も既に 真理を得ている者などいない。
だが、二人の人間が 共に真理を見出そう、探求しようと始めたら、それこそが対話であり、二人とも それによって豊かになる。

そして 真理が 明らかになったときに、それは 私のものあなたのもの ということにはならない。

真理が顕れるとき、 それは、探求に参加した二人より 大きく高く、二人とも それに包まれてしまう。
そして、それによって 二人とも豊かになる。



対話は 師と弟子の 関係の始まりだ。

それは 入り口で 起こらなければならないものだ。それなくして寺院の内に 入ることはできない。
“ 玄関にて ” という言葉があるのは このためだ。

門口で起こらなければ 意味がない。
最初が 対話なのだ。
もし それが 起こらなかったら、そのときには どんなかたちの入門も あり得ない。
そうだったら 一休は 玄関のその場で サヨナラを告げていただろう。

なぜなら、その人を 寺の内に 招き入れる必要は全くないからだ。
そんなことをするのは 全く無意味だからだ。

だからこそ、玄関で、玄関の上り口に坐って、 この対話は 起こったのだ。


一休は この男を感じ取ろうとした。
この男を感じ、その潜在する可能性や 能力を、また その姿勢を 感じ取らなければならなかった。

この男の求道は どのくらい深いのか?
求道の熱意は どのくらい強いか?
単なる 好奇心だけではないだろうか?

この男は ただの知識人だろうか?
それとも 本物の求道者なのか?


一休は 蜷川の 存在を 感じ取ろうとし、蜷川は それを受け容れた。
彼は 一休の試みに 参加し、それを共にした。

彼は それを怖れることなく、自分を守ろうともしなかった。
蜷川は、自分が自分以外の何者かであるような フリをしようとはしなかった。

彼は、自分のハートを 一休に対して 完全に開いた。
そして 一休が 自分の内側に入り、自分を感じることを 受け容れた。
なぜなら、師は このようにして、人が 偶然に ここを訪れたのか、それとも本当に訪れたのか、それを 知り定めなければならないからだ。

訪れは 偶然なされることもある。


7️⃣へ つづく