saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」5️⃣

(…これは、ハートで生きる人たち、勇気があって、危険を冒せる人たちのためのものだ。
これはこの世で 最大のギャンブルだ。)

あなたは 自分の命の全てを賭けるのだから、自分自身を誰かに 差し出してしまうのだから。

あなたは、その人が どういう人か知らないし、知ることもできない。
何かを感じることは あるかもしれない。
だが、師に関しては はっきり納得いくことなどまるでない。

疑念は 常にとどまる。


しかし、疑念にも関わらず、人はジャンプして 踏み出さねばならない。
疑念が晴れることは けっしてない。
隠すことはできても、自分の内部の その疑っている部分を説得することはできない。
どうやって 説得する?

あなたは ただ師と共にいなければならない。
そうすることによってのみ、疑念は 消えていく。
それ以前は とても不可能だ。
体験だけが 疑念を消すのに役立つ。
だから、説得など できるものではないだろう?


マインドは 常にためらう。
私のところへは いろいろな人たちが来るが、自分は躊躇している、五分五分の感じだ と言う人たちがいる。
どうしたらいいでしょう?
サニヤスを受けるのは 待つべきでしょうか?


ところが もし待つとしたら、彼らは 永遠に待つことになる。
もし彼らが、マインドが 百パーセント納得できる時がきたら ジャンプしようと考えているとしたら、そんなジャンプは けっしてできない。
なぜなら、マインドには、何かを百パーセント肯定するなど 絶対にできないからだ。
それが マインドの機能や 性質だ。


マインドは いつも分割され、断片的だ。
全一 (トータル)ではありえない。

ハートと マインドの違いは ここにある。
ハートには 全一性が あるが、マインドは 常に分断されている。

マインドとは、あなたの存在の 別たれた部分であり、ハートとは 別たれていない 存在だ。


弟子として在ることは ハートから来るものだ。

マインドの方は だらだら話しつづけ、疑いつづけ、 そして邪推する。
それにも 関わらず、そのお喋りマインドにも関わらず、人は ジャンプして、 翔ぶ!


「にも関わらず」と私は言っている。
なぜなら これこそ唯一の方法だからだ。
マインドの言うことに 耳傾けないでいなさい。

マインドの下をくぐり、ハートまで行きつくがいい。
ハートに 訊ねるがいい。


弟子として在る というのは 恋に似ている。
ビジネスで パートナーを組むといったものでも、契約を交わす関係でもない。

あなたは ただ単に与える。
何かが起こるかどうか 知ることもなく。
お返しを もらえるかどうかは 分からない。
あなたは ただ単に 与えるだけだ。
だからこそ、 それは勇気なのだ。


蜷川は、 禅に関心を持っていただけではない。
彼は 禅に献身する者、禅を 熟愛する者だった。

関心、好奇心、詮索、これらは マインドの産物だ。

だが、献身は ハートのものだ。


“ 入門を望み ”

「弟子になる」とは どういうことなのだろうか?
それは 何を意味するのだろう?
それは こういうことだ。


私は やってみました、が、失敗した。
私は 探し求めました、が、見出だせなかった。

やれることは 全部やりましたが、同じ自分のままです。
変身は 私に起こっていない。
ですから私は、降伏して 全てを委ねます。
今は、導師(マスター)が 決めてください。
私が 決めるのではなく。


私は影のように 師に従います。
師の言うことは 何でもやります。
そして、なぜかとは問いません。
師は まず私を納得させるべきだ などと求めません。
反論することなく、ただ従っていきます。
深い信頼の内に。

マインドは 依然まくし立てるかもしれない。
「お前は 何をやっているんだ? これはうまくない。
こんなことが何になる。
バカげてる、狂っている! 」

マインドは こんなことを言いつづけるだろう。

しかし、ひとたび弟子として在ろうと決意したら、もうあなたは マインドに耳傾けることはない。
師の言うことに 耳傾けることだ。

今まで あなたは、自分のマインドに、エゴの言うことに耳傾けてきた。
これからは、師に 耳傾けるがいい。
今や師が あなたのマインドになる。
これが弟子たることの 意味だ。

あなたは自分自身を 脇に置き、師が あなたの存在の 最も深い中核にまで浸透するに任せなさい。

あなた という存在は もういない。
師 だけだ。
弟子として在るということは 影として在ることで、あなたのエゴは 完全に脇に置かれる。


“ 一休に入門を望み 京は紫野の大徳寺を訪れた

玄関にて問答があった ”


禅の逸話には 非常に深いものがある。
一語として 無駄な言葉は使われない。

“ 玄関にて問答があった ”

この 問答は 対話ということだ。
対話とは、単に 話をすることでも、話し合うことでもない。
議論でも、討論でもない。

対話には それらとは違う特質がある。
対話とは、二つの存在が 出会うことだ。
愛の内で 出会い、互いを理解しようとする 慈しみの内で 出会う。

議論するのでもなく、ディスカッションするのでもなく、ただ、きわめて思いやりのある姿勢をもった出会い、それが対話だ。

対話とは、相手の存在に参加して、存在を共にすることだ。
二人の友人どうし、二人の恋人どうしが、何の敵対心もなく、自分が正しい、相手は 間違っていると努力して証明しようとすることもなく、ただ 存在を 共にすることだ。


よくあることだが、人と 話をしている間、あなたは 微妙なやり方で、自分が正しいことを 証明しようと しつづける。
そして、相手もまた 自分の正しさを 立証しようとする。

そうなったら、対話は 不可能だ。
対話とは、開かれた(オープン)マインドで 相手を理解しようとする、という意味なのだ。


対話は 稀有な現象であり、美しい。


6️⃣へ つづく