saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」3️⃣

(…愚か者だけが 知る人であり、知識を主張する。)

科学の研究の世界でさえ、道が 行き止まりになる瞬間がやって来る。
と、そこで突然 ジャンプが起こる。
だが、詩人は ジャンプなしで 宗教の世界に入っていける。
そっと滑り入るだけでいい。
二つの道は 繋がっているのだから。


科学者は ジャンプしなければならない。
三百六十度の 全面的な反転をしなければならない。
上から下へ、内から外へ、外から内へと トータルに回転しなければならない。

しかし詩人は ただ滑り移るだけでいい。
古い皮から滑り脱ける 蛇のように滑り移る。

だから私は、詩のほうが 宗教により近いと言うのだ。


この蜷川新左衛門という男は、非常に偉大な詩人だったにちがいない。
だからこそ禅に、瞑想に 心魅かれるようになったのだ。

もし、詩が、人を瞑想に 導くようなものでないとしたら、それは 詩ではない。
せいぜい 言葉の 巧みな構成ぐらいであって、その内部に 詩は入ってない。

有能な言語学者、言葉構成の名人、有能な文法学者か、あるいはまた、詩は どのように書くべきかの あらゆる法則を知っている人、そういう人では あり得ても、詩人ではない。

なぜなら、詩の最も奥深い中核に 在るものは、瞑想的な何か だからだ。


詩人は作詞家ではない。
詩人は ヴィジョンを掴む者であって、作詞構成などしない。


詩は、ある瞬間、詩人の内側に 起こる。
それは 瞑想的な瞬間だ。

実のところ、詩人が そこに い な い とき 詩は起こる。

詩人が まったく不在であるとき、突然、彼は、何か未知の、未だ かつて求めたことのない 何かに満たされる。
突然、何か、未知の世界の何かが 彼のなかに入ってきたのだ。

さわやかで新鮮なそよ風が 詩人の家に入っていく。
今や、彼は そのさわやかな風を 言語に翻訳しなければならない。
詩人は作詞者ではない。
彼は 翻訳家なのだ。


詩人は翻訳する。
彼の 存在の内部で 何かが起こり、彼は それを言語に、言葉に訳していく。

言葉でない 何 か が 詩人を内側から動かす。

それは 感じ(フィーリング)のようなものに 似ていて、考えたことではない。
それは マインドよりも、むしろハートのなかにある。


詩人は 勇気がある。
ハートで生きる ということは 深い勇気が要る。

勇気 (courage) という言葉は おもしろい。
これはラテン語の cor から来ているが、cor というのは ハートという 意味だ。
勇気 courage は cor に語源をもち、cor ハートを意味する。

だから勇気がある ということは、ハートで生きる という意味になる。


弱い人間、弱虫だけが マインドで生きる。
びくびくと 怖いものだから、自分のまわりに論理という 保護壁をこしらえる。

何もかも恐れているから、思弁や 概念、言葉や 理論、そういったもので 窓や戸口を全部 閉ざし、そのなかに 自分自身をを 隠しておく。


ハートの道は 勇気の道だ。
それは 無防備の内に 生きることであり 、愛と信頼の内に 生きること、未知なるものに向かって 進んでいくことだ。
過去に別れを告げ、 未来を 在らしめようとすることだ。


勇気とは、危険な路を 歩むこと。
生は 危険に満ちている。

臆病者は その危険を避けることも できようが、しかし それでは もう死んでいるも同然だ。

活き活きと 生きている人、本当に 生きている人、生気に あふれて生きている人、こういう人は かならず未知に向かって進む。

そこには 危険はある。
しかし、そういう人は 敢えて危険を冒す。


ハートには いつでも危険を冒す用意が できている。
ハートは ギャンブラーだ。

マインドは というと、これは ビジネスマン。
マインドは 常に計算している。
マインドは ずる賢い。

一方 ハートは、計算は 全然ダメだ。


この英語の courage (勇気) という言葉は とても美しい。
それに 実に興味深い。
ハートを通して 生きる というのが その意味だ。


4️⃣へ つづく