saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」1️⃣

「草はひとりでに生える」
The Grass Grows By Itself
OSHO
発行 / OEJ Books 株式会社


第八章 濃紫に染められた野辺
一九七五年 二月 二十八日 講話



連歌師であり 仏教の帰依者でもある蜷川新左衛門は
名高い 一休禅師に入門を望み 京は紫野の大徳寺を訪れた
玄関にて問答があった

一休 どなたかな?

蜷川 仏教帰依の俗にてござる

一休 いずれから?

蜷川 和尚と同国なり

一休 ふむ あちらはこの頃如何かの?

蜷川 烏はかあかあ 雀はちゅんちゅん

一休 そなた 今 何処にいるとお思いか?

蜷川 濃むらさきに染まる野辺に

一休 なにゆえ?

蜷川 桔梗 槿 萱草 紫蘭

一休 それらが去りし後は?

蜷川 宮城野 秋 花開きし野なり

一休 宮城野にて 何が起こる?

蜷川 水は流れ 風わたり申す


禅師は その禅風にいたく驚き
蜷川を奥間に通して茶をもてなした
その折詠まれた歌は

何をかな参らせたくな思へども
達磨宗には 一物も無し

蜷川 応えて詠む

一物も無きをたまはる心こそ
本来空の妙味なりけり

深く心動かされた禅師が 言った
そなた 多くを学んできたものよ------ ”



神学より、詩のほうが 宗教に近い。
理性より、想像のほうが 宗教に近い。

そして、当然のことながら、宗教は その両方を超越する。
そのどちらでもない。


論理を通して宗教の深淵に落ちていくことは いささかむずかしい。
論理は宗教に関して 堅苦しいからだ。
論理には 柔軟性がなく、閉じている。
ひらいていない。
論理には 窓がないし、自分自身のなかから出ていこうにも 戸口がない。
まるで 墓だ。

人は そのなかで 死ぬことはできるが、生命的な流れの方向に 進むことはできない。
論理を通して 生き生きとなることはできない。
論理は 縞模様の囚人服、獄舎だ。


詩は 宗教に より近いところにある。
なぜなら 詩には もっと柔軟性があり、液体のように流動的だからだ。

詩は 宗教そのものではない。
だが、論理と くらべると、ずっと簡単に抜け出せる。
戸口や 窓のような開口部が 詩にはある。

そしていつでも、さわやかな風が、詩人の 心の内奥の深みにまで そよぎ渡ることができる。


詩には 固苦しさがが ないから、あなたが もしそう望むなら いつでもそこから抜け出せる。
しがみつくことはない。

そして想像力が豊かだから、知らず知らず 未知なるものに出喰わすこともある。


詩は 暗闇を 手探りしながら行く。
暗闇での手探りが 詩だとも言える。
詩は その手探りを、暗中模索を ずっとずっとつづけていく。
だから常に、どんな新しい次元の内にも 入っていく用意ができている。


論理は抵抗する。
論理家以上に 正統(オーソドックス)的な人たちを あなたは見つけることができない。

彼らは、新しい次元が開かれるのに 耳を傾けようとしない。
それを 見ようとさえしない。
彼らは簡単に、 そんなことは不可能だ、と言って片づける。

可能なことは全て、既に知られているではないか と彼らは考える、起こり得ることは全て既に起きているではないか、と考える。
論理の人たちは、いつも 未知に対して疑いぶかい。


詩人のハートは常に〈未知〉と 恋に落ちている。
詩人は、いつでも、何か新しいものを求めて 暗闇を手探りしていく。
何か 独創的なもの、何か今までに味わったことのないもの、何か 今までに遭遇したことも経験したこともないようなもの、 詩人は それを求めて手探りする。

そして時折〈未知〉にぶつかり、宗教の深淵に落ちていくこともある。


詩は 暗示的だ。
詩は 比喩や 暗示を通して生きる。
同じことが 宗教の言語にも言える。
もちろん、比喩が 詩的な方法で使われるときには、何か あ る こ と を暗示し、宗教的に使われるときには 全く別な 何かを暗示する。

しかし両方とも 比喩を用いることに変わりはない。
だから、そこには 二つが出会う地盤があるのだ。
それぞれが 暗示する意味はちがっていても、その手法は 同じファミリーの 一員で、双子のようなものだ。
しかし、その内側にある違いは とてつもなく大きい。


だが少なくとも、表面的なかたちの上では、二つの間には、論理と宗教の間にあるほどの隔たりはない。
この類似のために、宗教は今まで 詩人のようなやり方で話をしてきた。
ウパニシャッドヴェーダ、カヴィールや ミーラ、そして禅の詩人たち みんなそうだ。


禅の人たちは 美しい俳句を残している。
俳句のなかでは、その深い凝縮のゆえに、広大な詩の世界が 一粒の種のようになる。

時には非常に単純になっているから、すぐには その意味を掴むことはできない。

だが 句を熟考し、瞑想していけば、少しずつ、その小さな句が 一つの扉となっていく。


二、三日前 、 私は 芭蕉の有名な俳句を読んだ。
とても小さな詩だ。
が、 この句について瞑想すれば、あなたにも 扉が突如 開かれるだろう。
その俳句というのは これだ。

古池や 蛙飛びこむ 水の音

この情景を 眼に浮かべてみてごらん。
古い古い池------ 蛙が 一匹ぽーんと 飛び込む------その、 水の音------ これで終わりだ。
ほかに 何も言うことはない。
その状況 全体が ここに凝縮されている。


あなたも この句について瞑想すれば、知らない間に、静けさが、沈黙が、自分を取り巻くのを感じるだろう。

何かが あなたの内部で変化していく。

これは 客観芸術なのだ。


禅の詩人たちや スーフィーの神秘家たち、そしてヒンドゥの聖者たちは、みんな 詩の言語で話してきた。


2️⃣へ つづく