saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章「死んではいません」7️⃣

(…解脱した人間がどうなるかについての理論は 山ほどある。)

ある人たちは、解脱者は モクシャと呼ばれるところに達して、永遠に永久に生きるのだ と言う。

それに もっと色彩豊かなのもある。
それによると、解脱者は 神の王国に入って、神とともに永遠に永久に生きるのだそうだ。
そこでは イエスが神の玉座の脇に、 右側に坐り 、 天使たちが舞ったり 唄ったりして 祝福が終わりなくつづく------

こういった理論が何百万とあるが、これらは全て 人々を慰めるために 神学者たちが創り出したものだ。
あなた方が 聞きたがるから、誰かが その答えを考え出さなければならない。

しかし、その誰かは けっして解脱に達している人たちではない。

解脱に至った人たちは 沈黙している。
彼らは 関わろうとはしない。


エスは こう言う、野の百合を想うがいいと。
百合は 今 こ こ に 在る、ただそれだけだ。
明日のことなど 少しも気にかけない。
明日は、明日自身が決めていくだろう。


ある人が、 一人の 禅の導師(マスター)のところへ新約聖書を持っていった。
その導師は 数行を読んで この 一節に行きあたった。

野の百合を想うがいい
想い煩うこともなく
明日を思うこともない
今、ここにあってあまねく美しい
あの大王ソロモンが
その栄光の頂きにあった時でさえ
この美しさには及ぶべくもないーーー


その禅師は これを読むと こう言った。
「待て! 誰が言ったか知らないが、これは覚者(ブッダ)だ」


禅師は イエスのことも知らなかったし、キリスト教のことも知らなかった。
キリスト教が 日本にまだそれほど普及していなかった頃のことである。

その禅師は言う。
「待て! もういい。
それ以上言う必要はない。
誰であろうが これは覚者の 一人だ」


解脱に至った人たちは 誰もが皆、 こ の 瞬 間 とどまることを 主張してきている。
だから愚堂もまた こう応えたのだ。

どうして私が知ってましょう と。


上皇

どうしてかって?

そなたも解脱に達している師であろうが ”


師(マスター)から、私たちは 答えをもらうことを期待する。
だが実のところは、師は 答など けっして与えない。

あなたの出す問いを 壊すだけだ。

師からの答への期待と、問いそのものが壊されることのあいだには、とてつもなく大きな差異がある。


師から 私たちは、自分たちの出す 質問への答を期待するが、もし質問自体が 愚かしかったら、答も 質問よりいいものにはなりえない。

馬鹿げた質問に 賢く答えることなどムリだ。
問いそのものが愚劣なのだから。


たとえば 誰かがこんなことを訊ねるとする。
「緑という色は どんな味がするでしょうか?」

ばかばかしい。
関連性が全くない。

ところが、これは質問としては完璧なように見える。
言語学的には完璧な質問だから訊けないことはない。
「緑という色はどんな味がする?」 言葉の上では、言語構成という点では何一つ ミスはない。


いろいろな理由から これと同じことが、この逸話の問いに関しても言える。
「解脱に至った人は 死後どうなるのですか」というのが この質問だが、まず、解脱に至った人間は けっして死なない。

解脱している人とは、永遠の命を知るに至った人のことだ。
だから 死ぬことはありえない。

次に、解脱に至った人は もう人ではなくなっている。
その自我は 溶けて消えてしまった。
だからこそ 解脱していると いえるのだから!

つまり、まず、解脱した人は けっして死なない。

だが、同時に、解脱した人は もうすでに死んでいる。

なぜなら その人は存在していないのだから。


8️⃣へ つづく