saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章「死んではいません」6️⃣

(…それはちょうど 盲目の人が、朝、太陽が昇るとどうなるか訊くようなもの。
どうやって説明すればいい?
どうやったら 伝えられるかね?
それを 伝えることは不可能だ。)


昔、あるところに盲目の人がいたという。

この人は ただの盲目ではなく、相当な哲学者だった。
だが、彼の住んでいる村では、村中が 彼のために悩まされていた。
というのは、彼は 光などというものは この世にないと、論理的に立証してしまうからだった。

彼が言うには、
「私には 手があって、ものに 触れ、 それを感じることができる。
だから、光が どこにあるか 私に示してくれ。
もし存在するのだったら、 それは必ず 触れることができるはずだ。
もし存在するのだったら、それは味わうことができるはずだ。
それを打ったら 私にその音が聞こえるはずだ」


村人たちは、彼の主張に 反論できないものだから 大いに困ってしまった。

彼には 四つの感覚しかなく、こう言うのだ。
「私には 感覚が四つある。
光を 私のところへ もってきてくれさえすれば、私は この 四感を通して、それが果たして存在するかどうか みてみようじゃないか」

村人たちが、「あなたは眼が見えないから、見ることができないんだよ」と 言っても、彼は 笑って こんなことを言うのだ。
「君たちは 夢でもみてるんじゃないかね?
眼って 一体何だ?
君たちに眼があって 私に眼がないなんて、一体 どう証明できる?
光とは何なのか 私に言ってみてくれ。
説明してみてくれ!」


しかし、村人たちにそれはできなかった。
それはとても不可能だった。

そんなわけで彼らは すっかり憂うつになってしまった。
この男は盲目で、彼らには眼がある。
眼があるから 光が何か知っているが、盲目の男に どう光を説明すればいい?


そんなある日、仏陀が この村に立ち寄った。

そこで村人たちは みんなで、この狂った哲学者、盲目狂人を 仏陀の許に連れていき、こう頼んだのだった。
「どうかこの男に 光を説明してやってください。
私たちがどう言っても 駄目でした。
この男は 大した男なのですよ。
光が存在しないことを証明するんです。

触れることもできないし、嗅ぐことも 味わうこともできない、聞くこともできない、それなのに どうやって存在できるのだ、 こう言って 私たちを困らせます。
あなたがここに来たからには、光を彼に 説明してやってください」


すると仏陀は言った。
「お前たちは なんて愚かなんだろう。
眼の見えない人間に 光を説明できるはずがないではないか。
その努力自体 全くバカげている。
私は非常に有能な医者を知っているから、 この男を その医者に連れていって眼の治療を受けさせなさい」

早速その盲目の男は 医者のところに連れていかれ、治療を受けた。
すると彼は 完全な盲目ではないことがわかり、半年も経つうちには 少しずつ見えるようになった。

彼は 別の町にいた仏陀の許にかけつけると、その足下に ひれ伏して言った。
「今こそ、今こそ わかりました。
光は在ります、存在しています。
今になって初めて、あの村人たちが なぜ証明できなかったか分かりました。

それに今こそ、あなたが私を医者に送ってくださったことが本当に良いことだったと分かります。
私には 治療が必要だったのです。
光についての哲学や 理論ではなかったのです」


無知な人間が「解脱に至った人は 死ぬとどうなるのでしょう」と 訊いてきたら、ほうっておくしかない。

それが、「解脱に至った人には、生きている間、何が起こるのでしょう?」という問いであっても 説明は不可能だ。
説明なんかとてもできないことだ。


たとえば、私に何が起こったのかと訊かれても、私には 説明のしようがない。
そんなことは不可能だ。

あなたが 見 る ことを始めない限り、あなたの眼が開かれない限り、説明は 不可能だ。
あなたが 変わらない限り、何 一つ説き明かすことはできない。
コミュニケーションは 不可能なのだ。


解脱とは、まったく異なった質をもった存在の在り方であって、あなたは それに対しては盲目だからだ。


あなたは、私が解脱していることを 信じることはできる。
しかし、それを 見ることはできない。
そう信じることは確かに役には立つ。
なぜなら そう信じることで、あなたは 自分を開いた状態にしておけるからだ。
そういった信頼は役に立つ。

あなたは こう言って否定することだってできるのだから。
「いや、私には信じられない、どうして信じられよう?
自分が知らないのに、どうして信頼できる?」

こういう否定は あなたを閉ざす。
そうなったら もう可能性は 一切ない。

だからこそ宗教の世界では、シュダーラ、 つまり信頼を強調するのだ。
盲目の人は、人々が 光というものがあるよというとき、 ただ それを信じ、信頼するほかない。
そして もし信頼すれば 、そこに 一つの可能性が生まれる。
信頼しなかったら、こんなことを言って 治療さえ認めようとしないだろう。
「あなたたちは何を言っているんだ? 光なんてものはない。
それに、眼なんていうものもありはしない。
私は あなたたちの言うことなど信じない。
だから、互いに時間を無駄にすることはやめよう」


一つの次元から、 別の次元に 何か伝えることは不可能だ。
どうしても うまくいかない。

あなたは、 存在の もう 一つ上の次元へと昇っていかなければならない。
高まって そこに達したとき、初めて、 あなたにも見えてくる。

そして、あなたが見て、経験するとき、初めて あなたのもっていた信頼は満たされる。
しかし、見えるまでは、信じ、信頼するほかない。

そして 自分に 変身が起こることを許すことだ。



“ 愚堂は応える
どうして私が知ってましょう ”


死は まだやってきていません。
それが来るときは 来るまでで、来たら 私も知ることになるだろうから、そのときには 必ずお知らせしましょう。
ですが 今のところは知りません。

解脱に達している人は、あなたに理論を与えようとはしない。

そういう人が あなたにあげたいのは洞察だ。
理論ではない。

洞察は、あなたの 内部の 深い現象だが、理論は 借りものだ。
愚堂だって 答えようと思えば答えられた。
解脱した人間がどうなるかについての理論は 山ほどある。


7️⃣へ つづく