saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章「死んではいません」1️⃣

「草はひとりで生える」by OSHO
発行 / OEJ Books

第七章 死んでは いません 1975.2.27 講話



“ ある上皇が 導師愚堂(ぐどう)に訊いた

解脱に至った人間は
死ぬと どうなる?


愚堂は 応える

どうして私が 知ってましょう



上皇

どうしてかって?
そなたも 解脱に達している師であろうが



愚堂 言う

その通りです
が まだ 死んではおりません ”




人間は〈本物 ザ- リアル〉に関して 無知だ。
〈本物〉を知ることはむずかしい。

〈本物〉を 知るためには、まず自分が〈本物〉にならねばならないからだ。
同じ質のものだけが、 同じものを 知ることができる。


人間は 偽りに満ちている。
人間として存在しているものの、 たいへんな偽善者だ。

自分自身が〈本物〉ではないのだ。

自分の 本来の顔は まったく失われている。

いくつもの顔を持ち、そのたくさんの顔を使う。
ところが、
自分自身は その本来の顔に、自分の〈本物〉の顔に 気づいていない。


人間は 真似をする。
他人(ひと)の真似を しつづける。

そのうちに、少しずつ、 自分には自分だけの 独特(ユニーク)な在り方があることを 忘れていく。

〈本物〉は、 あなた自身が〈本物〉でない限り 知ることはできない。
それには並々ならぬ努力が要る。
その道は 険しい。


そこで 人は、トリックを試みる。
つまり、〈本物〉に つ い て 考え始めるのだ。

哲学的な解釈を与えたり、理論を作り出したり、〈本物〉についての 知的な系統づけまでする。


哲学というのは 全部これだ。
〈 ザ- リアル 本物〉を知らない という無知に関して 自分自身をだますために、マインドが考え出した トリック、それが哲学だ。
だからこの世は 哲学であふれていて、世界中が、思想や 理論の上で暮らしている。

ヒンドゥー教イスラム教、 キリスト教ジャイナ教、 仏教、数え切れないほどの思想だ。


それらは みんな安っぽい。
そのなかでは、あなたは 自分を変える必要がない。
ごく普通の知性、平凡なマインドがあれば それで済む。
高い IQは 必要ないから むずかしいことは全くない。

それらの思想を採用することで、あなたは 自分の無知を 自身に対して隠すのだ。



哲学とは 隠すための手段にすぎない。

何一つ知らないのに、人は 知っているような感じを 抱き始める。

一歩も踏み出していないのに、もう到達したように感じる。


哲学というのは 最悪の病気だ。
一度 この病気にかかったら、そこから抜け出すのは 大変むずかしい。
なぜなら、
それは エゴを たっぷり満足させてくれるからだ。


人は、自分の無知を知ると 傷つく。
そして、この無知は全面的で 完璧なものだ。
あなたは 本当に 全く何も知らない。


あなたは 真っ暗な無知の内にあるのだが、このことは エゴを ひどく傷つける。

あなたは何かを知りたいと思う。
少なくとも 何か知りたい。

哲学は そういうあなたの慰めになる。
そこには 理論がある。
あなたに 普通の聡明さがあれば それで充分だ。
理論を学ぶこともできるし、自分自身のシステムや 哲学をもつこともできる。

そうなったら、あなたは 楽になる。
そうなれば、あなたは 自分が何かを知るだけでなく、他人に教えることもできる。
忠告することもできる。
自分の知識を 他人に 見せびらかすことができるのだ。
そして、
全ては うまくおさまって、無知は 忘れられる。


哲学とは、〈現実(リアリティ)〉について、本物の様相について 理論的な構築をすることだ。

それは つ い て であり、に 関 し て であって、〈本物〉そのものではない。

まるで薮(やぶ)を つついてまわるように、ぐるぐる周囲を まわりつづけるだけだ。
〈本物〉の 中心に触れることは けっしてない。
そんなことはできない話だ。
それは 哲学には 不可能なことだ。

なぜ 不可能なのか?

それは、哲学は 理論を基にしているのに、〈現実〉は 理論を越えているからだ。

あなたは このことを もう少し理解しなければならない。


倫理は 一貫性を求める。
〈現実〉には 一貫性がない。
いや、
別の言い方をすれば、〈現実〉には あまりにも深い 一貫性があるので、たとえ正反対のものであっても 矛盾しない。

〈現実〉は 逆説的であり、あらゆる反対のものが〈現実〉のなかで 出会い、混ざり合い 溶け合う。
それは とてつもなく広大だ。

論理は 狭い。
論理は 道路のようなもので、狭く、しかも ゴール到着を 指向する。
〈現実〉は 広大な空間であり、ゴールもなければ どこへ向かうということもない。

それは すでに こ こ に あって、あらゆる次元が 一緒になって動いている。

論理は平坦だが、〈現実〉には 多くの次元がある。


論理では、Aは あくまでもA で、けっしてB ではありえない。
これこそ 論理の 一貫性だ。

〈現実〉の内では、Aは、Aであるけれど、いつでも 動いていってBにもなる。


論理で言えば、生は 生であって、けっして死ではありえない。
どうして 生が 死でありうる?

ところが〈現実〉の内では、生は瞬間ごとに 死に向かって動いている。
生は 死なのだ。


論理では、 愛は愛であって、憎しみではありえない と言う。
しかし、 愛は 一瞬ごとに 憎しみに向かって動いているし、憎しみは 一瞬 一瞬、愛に向かって動いている。

あなたは、同じ人を愛し、また憎む。
愛が 深ければ深いほど 憎しみもまた深い。
愛と 憎しみは 同じコインの表裏なのだ。


あなたは 人を 愛することなく憎めるかね?

まず 愛さなくては、憎むことはできない。
憎しみは、その第一段階に 愛を必要とする。

友情を 一度も感じたことのない人に、 どうやったら敵意をもてる?


友と敵とは 、論理のなかだけで 区別されているのであって、〈現実(リアリティ)〉にあっては 二つは 一緒だ。

あなたも、自分のもっている憎しみを 深く 探(さぐ)っていけば、そこに隠された愛を 見つけることができるだろう。


あなたが 生まれた瞬間、死も またあなたと共に生まれる。
誕生は 死の始まりであり、死は 誕生のクライマックスだ。


ギリシャの神秘家、ヘラクレイトスは こう言っている。

神は 生と死
夏と冬
飢えと飽満
善と悪

常に 両性に在り

神は 現実 (リアリティ)



〈現実〉を よく見ると、 あなたにも、 あらゆる反対のものが 内側で出会っているのが見えるはずだ。

〈現実〉は 矛盾に満ちている。

論理には 矛盾がない。
論理は 簡単で、単純で汚れがなくきれいだ。

〈現実〉は とても複合的だ。
〈現実〉は 三段論法のようにはいかない。

〈現実〉の次元は多様だから、数学の公式のようにはいかない。
そして、
矛盾し合うものは 全て 一緒になって、それぞれ相互関係を保っている。


昼は夜になり、夜は昼になっていく。
朝とは、夜がくるという徴(しるし)に ほかならない。

若さは 老いるし、美しさも変わって醜くなる。

何もかも変わり、その反対になる。


このことを 深く理解しておきなさい。
なぜなら、これこそ、哲学と宗教のあいだにある根本的な違いなのだから。


哲学は論理的だが 宗教は違う。
哲学は論理的だが、宗教は〈現実〉的だ。

哲学を理解するのは 少しもむずかしくない。
だが、宗教を理解することは ほとんど不可能だ。

論理の使う言語は簡単だが、宗教は 語ることができない。
宗教は〈現実〉の言葉を話さなければならないからだ。


2️⃣へ つづく