saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

問題は 一つだけーーー8️⃣

(…そうなったら エゴはなくなり、あなたは 自分が ただ無力だったのだ と分かってくる。
自分は 頼っていたのであって、世界の中心では なかったのだ と分かってくる。)


実際のところ、あなたは自分では 何一つできなかった。
頼らなければ 生き延びることはできなかった。
これを理解することで エゴは 少しずつ薄らいでいき、ひとたび 生との間に なんの葛藤もなくなったら、あなたは ゆったりと自然になる。

あなたはリラックスする。

そうなれば、あなたは ふんわり浮きあがる。

世界は 敵でいっぱいのところではなくなり、むしろ 一つの家族、一つの 有機的に結ばれた統一体になる。

そして 世界は あなたに対立するものではなく、あなたが 浮かんでいられるところになる。

これこそ、この小さな逸話の意味することだ。


これは 禅の人たちや道教の人たちが よく使う話だが、このなかに入っていく前に、二、三のことを あなたに話しておこう。

道教や禅の人たちは いつも孔子のことを ジョークの種にしてきた。
これも まさに 一つのジョークだといえる。
なぜなら、彼らにとって孔子は法精神の最高峰だからだ。

孔子という人は、エゴの手本、エゴの典型そのものだ。
巧妙で洗練され 教養豊かなエゴだ。


孔子の哲学は全て、他の人たちと衝突せずに エゴを保っていきながら、しかも いかにエゴに磨きをかけるか、ということにある。


教養人というのが つまりこれだ。
教養人には 謙虚さがない。 全くない!
教養人は たいへん巧妙なエゴイストで、
ひじょうに 狡賢い。

どんな人間関係にも 自分のエゴを持ちこまない。

彼らは エゴを こっそり隠しておき、自分が とても謙虚であることを示そうとする。

にっこり微笑して 頭を下げる。
が、これが 単なる外交的なものだということは 見ていてよくわかる。


孔子が言うには、「この世界に生きるためには、他のエゴたちと共に存在していかなければならないから、自分が どうふるまうかに関して、人は 充分すぎるほどに 気を配るべきである。

さもなければれば 不必要なトラブルが起きてくる」


これだからこそ、孔子は 三千三百もの法則をもって、人が 如何に振舞うべきかを説いたのだ。

どんなことに関しても 彼は法則をもっていた。
例えば、どんな衣服を着るべきか というようなことにまでだ。


道教や 禅と、孔子儒教的思考との違いを よく見てみるがいい。
なぜなら その違いが、全世界を通じて 宗教と道徳を区別させてきたものだからだ。

モラリストというのは 宗教的人間とは違う。
だが、その違いは とても微妙だ。


モラリストは 謙虚であろうとする。

そして 宗教的な人は 実際に謙虚だ。

モラリストは あらゆるところで へりくだったポーズをとる。
ポーズだ!

修養して 得たジェスチャーにすぎない。


宗教的な人は ただ たんに謙虚なのであって、それは ポーズではない。


エゴとは ナンセンスなものだ。

エゴには 存在するための土台などない。

エゴとは 子供っぽい夢にすぎない。

無知だったために 誤解していたのだ と理解することで、宗教的な人間は エゴのない存在になっていく。

エゴは蒸発して 消えていく。
宗教的な人は 謙虚に な る わけではない。

そうでなく、ただ エゴ無しに なるだけだ。

エゴがないのに どうやって謙虚になることができよう?

エゴだけが、謙虚に な る ことができるのだから、エゴ無しに なっているのに 一体誰が謙虚になるのだね?


宗教人は ただ、自分が存在しないことを 知っているだけだ。
そして 自分はこの、 広大無辺な有機体である 宇宙のほんの 一部にすぎないと 知るようになる。
分離した存在ではない。

だから エゴイストになろうとする自分は もういない。
謙虚に な ろ う とする自分も いない。
その人 という個は 存在しない。

自分の内側には、中心を作りあげているものは 実在しないと 知るだけだ。

中心とは 宇宙のなかに在るのであって、自分は その 一部分なのだと。


9️⃣へ つづく