saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「内なる宇宙の発見」by OSHO

(6️⃣)Pp 252ー 256
(…この技法はどのように働くのか。 もし 一日中「私は在る」と想起できたら、その想起は眠りさえも貫く。)

夢を見ているときでも、きっとあなたは 絶えず「私は在る」と想起するだろう。

もし 夢の中でも「私は在る」と想起できたら、たちまち夢は ただの夢となる。
もう夢に 欺かれることはなくなる。
もう夢は 現実だとは感じられなくなる。

これが メカニズムだ。

夢が現実だと 感じられるのは、
自己想起を欠いているからだーーー「私は在る」を 欠いているからだ。

自己想起がなければ、夢は 現実となる。

自己想起があれば、そのとき現実は、いわゆる現実は ただの夢となる。


これが 夢見と現実の違いだ。

瞑想的な マインドにとって、あるいは瞑想の科学にとって、これが唯一の違いだ。

もし あなたが在れば、そのとき 現実全体は ただの夢だ。
もしあなたが なければ、そのときは 夢が現実となる。


ナーガルジュナは言う
「今、私は在る。
なぜなら 世界がないからだ。
私が なかったときには、世界が在った。
存在できるのは どちらかひとつだ」。

これはべつに世界が消え失せた という意味ではない。
ナーガルジュナは この世界の話をしているのではなく、夢の世界の話を しているのだ。
自分が存在するか、夢が存在するかのどちらかだーーー両方ともには存在できない。


だから 第一歩は、絶えず「私は在る」と 想起することだ。
ひたすら「私は在る」だ。

ラーマと唱えたり、シャーマと唱えたりしてはいけない。
どんな名前も 使ってはいけない。

あなたは ラーマでもシャーマでもない。

ただ「私は在る」を 使うのだ。


日常の活動の中で それを試し、それを 感じてごらん。

自分が内側で 現実に なればなるほど 取り巻く世界は 非現実になっていくーーー 私 が 現実になり、世界は 非現実になる。

世界が現実か、あるいは 私が現実かだ。
両方 現実ではありえない。

あなたは今、自分のことを ただの夢だと感じている。
だから 世界が 現実だ。

その力点を 変えるのだ。

自分が現実になれば、世界は 非現実に なる。


グルジェフは いつもこの方法を使った。

彼の 一番弟子である P. D. ウスペンスキーは こう語っている。

グルジェフは この方法をウスペンスキーに与えた。
ウスペンスキーは 三ヶ月間ずっと、この「私は在る、私は在る、私は在る」という想起を 実行した。

そして 三ヶ月の後、すべては止まった。
思考、夢見、すべてが止まった。
ただ旋律が ひとつ、永遠の音楽のように 内側に残った、「私は在る、私は在る、私は在る」。

それは もう努力ではなかった。
それは 自然発生的に 続いていたーーー「私は在る」------。

三ヶ月経って、グルジェフウスペンスキーを 家の外へ呼び出した。
その三ヶ月間、彼は 家の中にとどめられ、外出を 許されていなかった。


「一緒においで」と グルジェフは言った。

ふたりは、ロシアの街、ティフリスに住んでいた。
グルジェフは彼を 外に呼び出し、連れ立って 街へ出て行った。

ウスペンスキーは 日記に書いている、
「このとき 初めて私は、イエスの言った『人は眠っている』という 言葉の真意が理解できた。
街全体が眠っているように見えた。
人々は その眠りの中で動き回っていた。
商店主達は その眠りの中で 物を売っていた。
客達は その眠りの中で物を買っていた。
街全体が 眠っていた。
私は グルジェフを見た。
彼だけが 目覚めていた。
街全体は眠っていたーーーそして、怒ったり、喧嘩したり、愛したり、売ったり、買ったり、およそ あらゆることをやっていた」


ウスペンスキーは言う、
「彼らの顔や 目を見ると、みんな眠っていた。
みんな そこにいなかった。
内的な中心を欠いていた」。
ウスペンスキーグルジェフに言った「もうこれ以上 行きたくない。
いったい なにが街に起こったのか。
なんだかみんな眠っているように、麻薬で酔っているように見える」

グルジェフは言った
「街には なにも起こっていない。
君に なにかが 起こったのだ。
君の 麻薬が抜けたのだ。
街は 同じだ。
君が 三ヶ月前に歩いたのと 同じ街だ。
だが君には、人々の眠っているのが 見えなかった。
自分も 眠っていたからだ。
今 それが見えるのは、なんらかの覚醒が到来したからだ。
三ヶ月にわたる 絶え間ない『私は在る』の想起によって、非常に小さな尺度においてだが 君は覚醒した。
君は 覚醒した!
君の 意識の一部分が 夢見を越えたのだ。

だから 君の目には、誰もがみな、眠り込み、死んだように見える。
誰もがみな 麻薬に酔ったように、催眠術にかかったように 動き回っている」

ウスペンスキーは言った、
「こんな現象には 耐えられないーーー誰もが みな眠っているなんて!
誰も 自分の行為に責任はない。
まるで ない!
どうして責任が取れるだろう」。

彼は 戻ってグルジェフに尋ねた
「いったい これはどうしたことだろう。
私は 騙されているのだろうか。
あなたは なにか細工をしたのかーーーそれで街全体が眠って見えるのか。
私は 自分の目が信じられない」


だが これは誰にでも起こる。
もし自分自身を 想起できたら、あなたにもわかるだろうーーー「誰も 自分自身に気づいていない。
みんな そのような状態で 動き回っている。
世界全体が 眠っている」


まず目覚めているときに 実践を始めてごらん。
いつでもいいから、思い出したときに
「私は在る」と 想起を始めてみる。

私はなにも「私は在る」という 言葉を繰り返せと 言っているのではない。

そうではなくて、その感じを持て と 言っているのだ。
風呂に入っているとき「私は在る」と 感じてみる。
冷たいシャワーを 感じながら、自分自身を その背後に置く、シャワーを感じながら「私は在る」と想起する。

べつに「私は在る」という言葉を繰り返せ というわけではない。

いくら繰り返したところで、その繰り返しが 覚醒を もたらすことはない。

そればかりか 繰り返しは 一層の眠りを生み出しかねない。
いろんな人が いろんなものを繰り返している。
たとえば「ラーマ、ラーマ、ラーマ」と 繰り返している。

だが覚醒なしに ただ繰り返しているだけだったら、この「ラーマ、ラーマ、ラーマ」は 麻薬になってしまう、それで よく眠れるようになる。


だからこそマヘッシ-ヨーギが あれほど西洋で もてはやされるのだ。


(7️⃣) へ 続く