saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「内なる宇宙の発見」by OSHO

(3️⃣)
Pp 244 ー 247
(…目は ただの窓だ。 私はあなたを目で見ているのではない。 目を通じて見ているのだ。)


目の中に あなたは映っている。
あなたは ただの像かもしれない。

現実かもしれないし、夢かもしれない。

夢というものは 三次元的だ。
写真なら 現実と区別がつく。
写真は 二次元的だ。

だが夢は 三次元的だ、まさに あなたと同じだ。

だから目には、今 見えているものが 現実なのか 非現実なのか わからない。
判断のしようがない。
目は 審判ではない。


そして像は 化学的な信号に変換される。
この化学的な信号は 電気的な波動だ。
それは 頭のどこかへいく。

その場所が どこにあるか、つまり 目 と 見ること とが 接触する箇所がどこなのか、いまだ知られていない。

ただ 波動が私に到達し、そして解読される。

私は 再びそれを解読し、なにが起こっているかを知る。


私は いつも内側にいる、そしてあなたは いつも外側にいる。
そこに出会いはない。
だから、はたして あなたが現実なのか、それとも ただの夢なのか、これが問題となる。

今 この瞬間でさえ、私が夢を見ているだけなのか、それとも あなたは現実にここにいるのか、それを判断する術はない。

こうして 私の話を聴いているときにも、自分は 現実に話を聴いているのであって 夢を見ているのではない と どうしてわかるだろう。
どんな方法もない。

だからこそ 昼の間 ずっと続いている姿勢が、夜にまで 持ち越されるのだ。

そして 夢を見ている間も、それを 現実と みなしてしまう。


その逆を 試してごらん。
それが シャンカラの本意だ。

彼によれば、世界全体は 幻想だ。

彼によれば、世界全体は 夢見だ。

だが我々は 愚かな人間だ。


シャンカラが「これは夢だ」と言えば、我々は言う、「だったら なにもする必要がないじゃないか。
もしこれが ただの夢なら食べる必要はない。
なぜ食べ続けながら、これは夢だ なんて考え続けるのか」


それなら食べなくていい!
だが そのときには想起するのだーーー空腹を感じたら「これは夢だ」と。
あるいは 食べればいい。
そして 食べすぎたと感じたら、想起するのだーーー「これは夢だ」と。

シャンカラは べつに夢を変えろと言っているわけではない。

夢を 変えようとする努力もまた、「これは現実だ」という 誤信にもとづいている。

現実でないものを 変える必要はなにもない。

シャンカラは ただ言うーーーなにがどうであれ、それは 夢だ。


そこが 大事な点だ。
夢を 変えようとしてはいけない。
それを いつもおぼえておく。

三週間の間、なにをやっていようと これはただの夢だ と 絶えず想起する。

最初のうち、それは 非常に難しい。
きっと何度も 何度も、旧来の マインドのパターンに陥るだろう。
きっと「これは現実だ」と 考え始めるだろう。

これは夢だ と 自分に思い起こさせるには、絶えず自分自身を目覚めさせる必要がある。

もし 三週間、継続的に この態度が保持できたら、四週目か五週目の晩、夢を見ている最中に、
突然 思い起こすだろうーーー「これは 夢だ」と。


この方法は、意識によって、覚醒によって、夢を貫く方法の ひとつだ。

もし夜、夢を見ている最中に、これは夢だと 想起できたら、もう 日中に これは夢だと 想起する必要はなくなる。
もう そのことは わかっている。


実行していても、最初のうち それはただの「ふり」のようなものだーーー始めのうちは「これは夢だ」という 信仰のようなものだ。

夢の中でも「これは夢だ」と 想起できるようになったら、それは ひとつの現実となる。

すると朝起きるときも、眠りから起きるようには 感じられなくなる。

ひとつの夢から 別の夢へと起きるように感じられる。

すると それはひとつの 現実となる。

もし 二十四時間 全部が夢となり、そのことを感じ、思い起こすことができたら、あなたは 自分の中心に立っている。

そのとき意識は、二方向 (中心と周辺)に向かう矢と なっている。


夢を見ているとき、その夢を 夢として感じ始めたら、夢 見 る 者 、つまり 主体が 感じられるようになる。
もし 夢を現実のもの と みなしたら、その主体は感じられない。

もし映画が 現実のものとなったら、あなたは 自分自身を忘れてしまう。
だが 映画が 終わって、それが 現実のものではないと知ったとたん、あなたの現実性は爆発する、炸裂する。

あなたは 自分自身を 感じることができる。

これが ひとつのやり方だ。


これは インドでも もっとも古い方法のひとつだ。

このために我々は「世界は 非現実だ」と執拗に 言い続けてきたのだ。
だが、哲学的な意味で そう言っているわけではない。

「この家は非現実だから、その壁は 通り抜けられる」などと言っているわけではない。

「この家は 非現実だ」というのは 方便だ。

「この家が存在しない」というわけではない。


(4️⃣) へ 続く