saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「内なる宇宙の発見」by OSHO

(2️⃣)
Pp 238ー 244
(…この自己無知が眠りだ。 夢見が完全に やまないかぎり、自分自身に目覚めることはない。)


映画を見ていて、こんな経験をしたことがあるだろう、三時間経って、突然 映画が終わり、あなたは 我に返る。

三時間が 経過したことを 思い出す。
それが ただの映画だったことを思い出す。

そして 自分の涙を感じる------あなたは すすり泣いていた。
その映画が悲劇に 思えたからだ。
あるいは、あなたは 笑っていた。
あるいは 別のことをやっていた。

そして今、自分自身を笑う。
なんて 馬鹿なことをしていたんだろう!
それは ただの映画、ただの お話だった。

スクリーン上には なにもなかったーーーただの光と影の芝居、ただの電気芝居だった。

あなたは笑う、あなたは 自分自身に戻ってきた------だが この三時間、あなたは いったい どこにいたのか。


あなたは 自分の中心には いなかった。
完全に 周辺部に移っていた。
スクリーンの上に いっていた。
自分の 中心にいなかった。
自分の もとにいなかった。
どこか ほかにいた。


このことが 夢見において起こる。
これこそが 我々の生だ。

映画は わずか三時間だが、この夢見は、何生も、何生も、何生も 続く。
たとえ突然、夢見が停止しようと、あなたには 自分が誰なのか 認識できない。
突然 気が遠くなるような感じがして、恐れさえするだろう。

そして再び 映画の中へ入ろうとする。

そこなら お馴染みの世界だ。
そこなら 知っている。
あなたは その世界によく順応している。


夢見の停止が 起こったときのために、そこにひとつの道がある。
ことに 禅において それは頓悟(とんご)の道 として知られている。

あなたに 突然の目覚めをもたらす技法が この百十二の方法の中にある。
いくつも ある。

それは 強烈すぎるかもしれない。
あなたはそれに 耐えられないかもしれない。

あなたは爆発しかねない。
死んでしまうかもしれない。

あまりに長く 夢見とともに生きてきたせいで、夢見がなくなると 自分が誰だかわからなくなる。


もし この世界が 突如消え失せ、あなたひとりが 残されてしまったら、ショックのあまり きっと死んでしまうだろう。

同様に、もし 一切の夢見が 突如、意識から消え失せてしまったら、同じことが起こるだろう。

あなたの世界は 消え失せてしまう。

なぜなら その世界は あなたの 夢見だったからだ。


我々は 世界の中にいるわけではない。
世界を創り上げているのは、外的な物質ではなく、自分の 夢だ。
だから誰もが 自分自身の夢の世界に住んでいる。


そもそも、我々の語る世界は、ひとつではない。

地理的にいえば ひとつだが、心理的にいえば 世界は マインドの数だけ存在する。
マインドの ひとつひとつが 独自の世界だ。

もしあなたの 夢見が消え失せれば、あなたの世界も 消え失せる。

夢なしで 生きるのは難しい。

だからこそ、突然の方法は 一般的に使われることがなく、段階的方法だけが使われるのだ。


おぼえておくといい。
段階的方法が使われる 理由は、段階が必要だからではない。

あなたは 今この瞬間にも、悟り(リアライゼーション) へと飛躍できる。

なんの障害もない。

かつて どんな障害も 存在したためしはない。

あなたはもう その悟りだ。
今 この瞬間にも ジャンプできる。

しかし、それは ときとして危険だ、致命的だ。
あなたは それに耐えられないかもしれない。
あなたには 強烈すぎる。


あなたが馴染んでいるのは、偽りの夢だけだ。
現実(リアリティー)には 出会うことができないーーー現実には直面できない。
あなたは温室の植物だーーー自分の 夢の中に生きている。

夢は いろいろ手助けしてくれる。
それは たんなる夢ではない。
あなたにとっては 現実だ。


段階的な方法が用いられる理由は、悟りに 時間が必要だからではない。

悟ることに 時間はいらない!

悟りに 時間はいらない。

悟りとは、未来において 達成されるものではない。
ところが 段階的方法によれば、悟りは未来において 達成されるものだ。

だとすれば段階的方法とは なにか。
段階的方法とは、「悟りを悟る」ためのものではない。
段階的方法とは、悟りに 耐えるためにある。
起こるものが 起こるときに、それ に 耐えられるよう、あなたを鍛え、強くするためにある。


ただちに自分を 開悟へと押しやる技法は 七つある。
だが、あなたは それに耐えられないだろう。
あまりの光に、盲目になってしまうかもしれない。

あるいは、あまりの至福に、突然 死んでしまうかもしれない。


我々の現状である この夢見、この 深い 眠りを、いったい どのように超越したらいいか。
この質問は その超越に役立つ。


「夢を見ている間にも意識を保つには、
そのほかに どんなことが必要ですか。
ご説明ください 」。


それでは、あとふたつの方法について話をしよう。
昨日 ひとつ検討した。

今日は もっと簡単なのを ふたつだ。


ひとつは、全世界が ただの夢であるかのように演じ、ふるまうことだ。

なにをしていても、「これは夢だ」と想起する。
食べている最中でも、「これは夢だ」と想起する。
歩いている最中でも、「これは夢だ」と 想起する。

目覚めている間じゅう、「すべては夢だ」と 絶えず心に想起する。

だからこそ世界は、マーヤー、幻想、夢と呼ばれるのだ。

これは 哲学説ではない。


不幸なことに、ジャンカラが 英語や ドイツ語、フランス語といった 欧州言語に翻訳されたとき、彼は 哲学者として理解された。

それが多くの誤解を生んだ。

西洋の哲学者の中にはーーーたとえば バークリーのようにーーー「世界は ただの夢だ、マインドの投影だ」と言う人がいる。

しかし それは哲学的な理論だ。
バークリーは、それを 仮説として提示している。


シャンカラが「世界は夢だ」と 言うとき、それは 哲学ではない。

シャンカラの場合は、ある特定の 瞑想の助けとして、支えとして、それを提示する。

そして これこそが その瞑想だ。
夢を見ている最中に「これは夢だ」と 想起したかったら、まず 目覚めている最中に 始めること。

普通、夢を見ている最中は、それが夢だ とは想起できない。

現実だ と 思ってしまう。


なぜ 現実だと 思うのか。
それは、一日じゅう あなたが すべてを現実だと 見なしているからだ。

そうした姿勢が 固定的になっている。

目覚めているとき、あなたは風呂に入っていた------それは 現実だった。

目覚めているとき、あなたは食べていた------それも 現実だった。

目覚めているとき、あなたは友人としゃべっていた------それも 現実だった。

一日中、一生涯、なにを考えていても、あなたは「これは 現実だ」という姿勢をとっている。

それが固定的に なっている。
あなたのマインドは いつも そのように受け取ってしまう。


だから 夜、夢見ているときでも、「これは 現実だ」という 同じ姿勢が続いている。

だから まず 分析してみよう。
夢見と 現実の間には、きっと なにかの類似性があるはずだ。
さもなければ、そのような姿勢は 続けられないだろう。


私は あなたを見ている。
それから 目を閉じ、私は 夢の中へ 入っていく。
そして夢の中で あなたを見る。

この両方の「見ること」の間に 違いはない。

現実に 私があなたを見ている最中、いったい私は なにを しているだろう。

あなたの像が 私の目の中に映っている。

私が あなたを 見ているのではない。

あなた の像が 私の目の中に 映し出されているのだ。

その像は、神秘的な作用を経て 変換される。
科学は いまだその作用を 解明するまでに至っていない。
その像は 化学的に変換され、頭のどこかに運ばれるーーーだが、科学は まだその場所を、それが起こる正確な場所を解明していない。

それは 目の中で 起こっているのではない。

目は ただの窓だ。

私は あなたを 目で見ているのではない。

目を通じて 見ているのだ。


(3️⃣)へ 続く