saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 内なる導き 9️⃣(第三の質問)

第三の質問

「直感が働き始めるとき、その直感に対する技法、つまり内なる導き手に対する技法は、明け渡しだけでしょうか。
直感を通じて生きる人間は、つねに成功するでしょうか。
成功と失敗は どこで判断するのですか。
また、直感に生きる人間は 知性が低下することはないでしょうか」。



内なる存在を機能させるための唯一の技法、それが明け渡しだ。


「直感を通じて生きる人間は、つねに成功するでしょうか。」


そんなことはない。
でも、つねに幸福だーーー成功しようがしまいが。

また、直感に生きない人間は、つねに不幸だーーー成功しようがしまいが。

成功は 基準にならない。
成功は いろいろなものに 左右される。

幸福こそが基準だ。
幸福は 自分しだいだ。


直感に従っても、成功するかどうかわからない。
なぜなら 競争者が いるからだ。

たとえ自分が直感的に行動したとしても、往々にして他人は もっとずる賢く、利口に、手際よく、暴力的に、反道徳的に 行動していたりする。

だから成功は、ほかのいろいろなことに左右される。

成功は 社会的な現象だ。

だから 成功するとはかぎらない。


いったいイエスは 成功しただろうか。
磔は 成功ではない。
最大の 失敗だ。

三十三歳で 磔にされるのが、成功であろうはずがない。
彼は、べつに有名でもなかった。

その弟子は、何人かの村人、無教育な人々だった。

何の地位もなく、何の権力もなかった。

これが成功だろうか。

磔は 成功とは 言い難い。

でも彼は 幸福だった。
彼は どこまでも至福に満ちていたーーー磔にされてもだ。

一方、彼を磔にした人々は、その後 何年も生きるが、ずっと苦悩の中だ。

だとしたら、いったい 誰が 磔になったのか。
そこが問題だ。
エスを 磔にした人間が 磔になったのか。
あるいは イエスが 磔になったのか。

エスは幸福だった。
どうして 幸福を 磔にできるだろう。

彼は エクスタシーに満ちていた。
どうして エクスタシーを 磔にできるだろう。

肉体なら殺せるが、魂は 殺せない。

彼を 磔にした人々は生きている。
しかし、その生は まさに長く緩やかな磔だ。
苦悩につぐ苦悩につぐ苦悩だ。


だから第一点。
内なる導き手に従ったからといって、必ずしも成功するとは かぎらない。
世界の認める成功 という意味では、必ずしも 成功するとはかぎらない。

しかし、ブッダや イエスの認める成功 という意味では、成功する
その成功の 基準となるのは、幸福であり、至福だ。

何が起ころうとも、本人は 幸福だ。

世界によって、「お前は 失敗者だ」と 決め付けられようと、あるいは「成功の星」として 祭り上げられようと、何の変わりもない。
あなたは 幸福だ。
どんな場合でも、あなたは 至福に満ちている。

私に言わせれば、至福こそが成功だ。

至福こそ成功だ と理解できれば、
「内なる導き手に従う人間は、つねに成功する」と言うことができる。


ところが人々にとって、至福は成功ではない。
成功は もっとほかのものだ。

その成功は 不幸であるかもしれない。

不幸になる と 承知していながらも、人々は 成功を求める。

政治的指導者を見てごらん。
彼らは不幸の中にいる。


🔟へ 続く