saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 内なる導き 3️⃣

(…これは、一見 逆説的だが、真実だ。)

永遠に待てる人間は、まったく 待つ必要がない。

一方、一瞬でも 待てない人間は、永遠に 待たねばならない。
そして 待っても 何も起こらない。
「さあ この瞬間に、すぐに それを起こさせよう」と語る心(マインド)は、すでに その瞬間から 動き去っている。

そういう心は いつも走っている、どこにも いない、どこにも とどまらない------いつも動作中だ。
こうした「動作中」の心、「運行途中」の心は、無垢になれない。


みんなは 気づいているだろうか。
無垢な人間は、時間を まったく気にしない。
時間は ゆっくり過ぎていく。
急いで どこかに行く必要はない。
無垢な人間は 走っていない。

瞬間から瞬間を 楽しんでいる。
瞬間 瞬間を かみしめている。
瞬間 瞬間が、それぞれエクスタシーを 届けてくれる。

ところが、あなたは あまりに急いでいるため、瞬間が エクスタシーを 届けてくれるひまもない。
あなたの場合は、ここにいるときも、その手は 未来へ伸びている。
その心は 未来へ向かっている。
それで この瞬間を逃してしまう。
いつでも そうだ。

いつでも 今を 逃している。

しかし、今というのは 唯一の時間だ。
未来は 偽りだし、過去は たんなる記憶だ。

過去は もはやないし、未来は まだ来ていない。
今の ほかは何もない。
今こそ 唯一の時間だ。


もう少し ゆったりし、勘定をやめ、子供のように 今ここに 遊ぼうとするつもりがあるなら、こうした単純な技法は 奇跡をもたらすだろう。

今の世紀は 時間を気にしすぎる。
だからこそ あなたは、「こうした技法の場合、それを実践する予備段階として、別の技法が必要ではないでしょうか」と 言うのだ。
それは 違う。


また、 これらは 技法であり、最終結果ではない。
それが最終結果のように 見えるのは、あなたに その働きが 想像できないからだ。
こうした技法が 有効なのは、ある一定のマインドに 対してだけだ。
それ以外のマインドには 有効でない。


そして実際、智者たちは 次のように言うーーー あらゆる技法は 最終的に あなたを無垢へと導き、その無垢の中で、究極の現象が起こる。

あらゆる技法は、あなたを その無垢へと導く。

その無垢があれば、究極の現象は起こる。


しかし現在、それは難しい。
無垢を教えるところが どこにもない。

利口になることしか 教えない。
大学は 人を無垢にするためのものではない。
人を利口に、狡猾に、計算上手にするためのものだ。

利口であればあるほど、生存競争では 有利になる。
計算上手であれば、富や、地位や、権力が 手に入る。

もし 無垢な人間がいたら、それは 馬鹿だということだ。
無垢であれば、この競争世界に 居場所はない。


しかし、これが問題だ。
たとえこの競争世界に 居場所があったとしても、ニルヴァーナの 無競争社会で 居場所を持つのは、無垢な人間だけだ。


計算上手な人間は、ニルヴァーナの世界に 居場所を持たないが、この世界には 居場所を持つ。
そして 私たちは、この世界を ゴールと定めている。


古代の大学は、まったく異なっていた。
その方針は、 まったく違っていた。
ナーランダや タクシャシラでは、計算は教えなかったし、利口になることも 教えなかった。

そこで 教えられていたのは無垢だった。


4️⃣へ 続く