saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 内なる導き 2️⃣

(…名前は何であれ、“それ” は すでにあなただ。)

だから、ただの示唆であっても、その示唆を 心から信じれば、“それ” は開かれる。

だからこそ、「シュラーダ」つまり信頼や信心が、これほど大事にされるのだ。
もし 師を信じることができれば、ただの暗示、示唆、指示によって、すべてが 一閃のもとに開かれる。


次のことを よく理解するように。
物事の中には、今すぐには達成出来ないものがある。
生み出すのに 時間のかかるものがある。
それは今、あなたのもとにない。
たとえば、私が あなたに種子を与えたとする。
その種子は、今すぐには 木になれない。
時間がかかる。

待たねばならないし、働きかけも必要だ。
種子は すぐに木になれない。
でも 本当のところ、あなたは すでに木だ。
働きかけを 必要とする種子ではない。
すでに 木だ。

その木は 闇の中にある。
その木は 隠れている。
あなたは その木に 気づいていない。
それだけだ。

あなたは どこかほかのところを見ている。
だから 見逃している。


信頼があれば、師は機を見計らって、示唆をもって語ることができるーーー「それは ここだ」と。
もし それを信じることができたら------もし信頼の中で、その 示された次元を 見ることができたら、それは開かれる。


こうした技法は 上級者向けではない。
単純な、無垢な人間向けだ。

上級者は、ある意味で難しい。
無垢でないからだ。
すでに 修行を経てきて、何かを達成している。

そして その裏には、微妙なエゴがある。
彼らは 何かを知っている。
もはや 無垢な人間ではない。
信じることができない。

だから まず、論議によって 納得させる必要がある。
それだけではない。
彼らの場合、納得した後、今度は 自分自身の努力が必要となる。


私の言う「無垢な心」とは、論議しない心だ。
ちょうど 小さな子供のようなものだ。

父親に 手を引かれて歩く子供は、恐れることがない。
父親の連れていく先が どこであろうとも、その方向は正しいと 確信している。
父は 何でも知っている。
だから心配する必要はない。

子供は 未来のことを考えない。
これから何が起こるかには関心がない。
その道筋を 楽しんでいる。
目的地は、まったく問題でない。


父親にとっては 問題かもしれない。
彼は 恐れているかもしれない。
道を 間違ったのではないか、はたして この道は正しいのか、と 思案したりする。

でも、子供にとっては 問題ない。
「父は 知っている」、それだけで充分だ。
そして 父親の導くところ、どこへでも ついていく。
今 この瞬間を楽しみながらーーー。


信頼する弟子、無垢な心、それは ちょうど子供のようなものだ。
そして師は 父親以上のものだ。
弟子が、明け渡し、信頼していれば、師は 時を見計らうーーーそして弟子が 自分と波長を合わせたと感じたら、示唆を与える。


禅師の 睦州(ぼくじゅう)について、こんな話がある。
彼は悟りを開こうと 苦闘した。
でも 何も起こらなかった。

実際、苦闘すると、往々にして何も起こらない。
苦闘は エゴによるものだ。
苦闘によって、エゴは さらに強くなる。

彼は 自分にできるすべてをしたが、ゴールは いっこうに近づかなかった。

むしろ逆に、旅を始めた頃よりも遠ざかっていた。
彼は 困惑した。 悩んだ。


そこで 師のところへ行った。
すると 師いわく、
「これから何年かの間、努力や、ゴールや、目的地といったものは、みな忘れてしまえ。

そして ただ私のそばにいて、瞬間から瞬間へと生きるのだ。
何もせず、ただ、食べ、眠り、歩き、そして私のそばにいる。
何も尋ねず、ただ 私を見、私の姿を見る。
何の努力もしない。

達成されるものは 何もない。
達成しようという心(マインド)を 忘れるのだ
達成しようという心は、つねに未来の中にある。
それでいつも 現在を取り逃してしまう。

だから『何かを達成せねば』ということは、きっぱり忘れてしまえ」


睦州は 師を 信じていた。
そこで 師と 生活を共にした。
何日かの間、何ヶ月かの間、いろいろな考えが浮かび、様々な 観念が現れた。
ときには不安になって こう考えることもあった、「これは 時間の無駄だ。
自分は何もやっていない。
何もせずに、どうして それが起こるだろう。
あんなに頑張っても起こらなかったのに、どうして こんなふうに何もしないでいて、簡単に到達できるだろう」


それでも彼は 師を信じていた。
少しずつ 心は落ち着いていった。
そして 師の身近にいて、ある微妙な平安が 広がっていった------ある静寂が 師から自分へと降りてきた。
自分が 合体していくように感じられた。

そして 歳月がたった。
彼は 自分の存在を まったく忘れてしまった。
師が 自分の中心となり、彼は 影のように生き始めた。


そうなると 奇跡が可能となる。

そうなること自体が 奇跡だ。

ある日 突然、師は 彼の名を呼んだ、
「睦州、ここに いるか」

彼は言った、
「はい、 先生」。
そして 悟りを開いたそうだ。


それはべつに 技法のようなものではない。
直接的な 示唆でさえない。
ただ、
「睦州、ここに いるか」だけだ。
つまり、睦州の現在性(ここにいること)が 呼び出されたわけだ、「お前は ここにいるか。
どこにも行ってないか。
どこまでも、徹底的に、ここにいるか」

睦州は言った、「はい、先生」。
この「はい」の中で、彼は 全面的な現在性を得た。


伝えによると、師は 笑いだしたそうだ。
睦州も 笑いだした。
そして 師は言った、
「もう行っていい。
よそへ出かけて、お前の存在によって 人々を助けておいで」


睦州は 何の瞑想法も教えなかった。
ただ こう言うのみだった、
「私のそばに居ろ。
現在に とどまれ」。
そして弟子の波長が 合ったと見るや、その弟子の名を呼び、
「お前は ここにいるか」と 尋ねる。
それが 技法の すべてだった。


しかし この技法のためには、心の根づきが必要だ。
深い 無垢が必要だ。

瞑想技法の中には 簡単なものが いくつもある。
非常に簡単なものがーーー。

たとえば、「これに なる」とか。

それは ただの暗示だ。
こうしたものは師が 機会を捕らえて言うものだ。
いつでもいい というわけではない。

弟子が 師と ひとつになりきったとき、あるいは 宇宙と すっかり一体となったとき、師は「これになれ」と 言う。
すると 突然、焦点は変化し、エゴの 最後の部分が溶け去る。


この種の技法は、過去には効果があった。

でも今は 難しい。 非常に 難しい。

人々は とても勘定高く、とても利口になっている。
利口というのは、無垢の 正反対だ。
人々は とても勘定高い。
算数を知りすぎている。

その計算は、いつも心の中で 続いている。
何をするにも、つねに 計算し、プランを立てる。

決して 無垢でない。
決して、開放的で、受容的でない。
自分自身を 頼みすぎている。

だから いつも逃してしまう。

この種の技法を適用するには、まず準備が必要だ。
その準備は、非常に長いものになるだろう。
ところが 人々は ひどくせっかちだ。


今の時代は、地球始まって以来、もっとも せっかちな時代だ。
みな せっかちで、時間を気にし、何でも今すぐにやりたい。
とはいえ、
「それは 今すぐにはできない」というわけではない。
今すぐにも できる。
でも こんなに時間を気にしていたら、それは不可能だ。


たとえば、私のところへやって来て、「滞在予定は 一日だけです」と 言う人がいる。

翌日は サイババのところへ行き、その後は リシケシに行き、それからまた 別のところへ行く。
そのあげくに 失望して帰国し、
「インドには何もない」と 考える。

でも肝心な点は、インドに 何かがあるか否かではなく、自分が 受け取るか否かだ。

あまりに 急いでいるものだから、インスタントコーヒーのようなつもりで、インスタント瞑想や インスタント-ニルヴァーナを求めている。

それは 無理というものだ。

ニルヴァーナは、パック詰めにしたり、インスタントにするものではない。
とはいえ 不可能というわけでもない。

インスタントにもできる。
でも それが可能なのは、インスタントを 求めないときだ。
それが 問題だ。

それは インスタントにできる。
すぐに、今 この瞬間にも それは起こる。
一瞬でさえ 必要ない。
でも それが瞬時に起こるのは、時間に対して、まったく くつろいでいる人間、無限に 待つことのできる人間にだけだ。


これは、一見 逆説的だが、真実だ。


3️⃣へ 続く