saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

タントラ秘法の書🔟「空の哲学」第四章

第四章ーーー第二の質問 1️⃣

「お話によると、〈存在〉は 一個の全体であり、すべては関連し、物事は互いに溶け合っており、木は太陽なしに存在できないし、太陽は木なしに存在できない、ということです。
それに関してうかがいたいのですが、無智と悟りは、互いに関連しているのでしょうか」。


無智と悟りは 関連している。

そのふたつは 互いに対極にあたる。
悟りが存在できるのは、無智があるからこそだ。

無智が 世界から消失したら、悟りも同時に 消失する。
二元的な思考のせいで、私たちは つねに「対立物」という見地で考える。

無智と悟りは 互いに補い合っている。

真の意味で反対ではない。
補い合っている ということは、ともに 他方なしでは存在できないということだ。

だから 敵どうしではない。

誕生と死は 敵ではない。
誕生がなかったら、死は存在できない。
誕生は、死が存在するための 基礎を作る。

また誕生も 死がなかったら存在できない。
死が その基礎を作る。


誰かが死ぬときには、つねに誰かが生まれる。
死は、次の瞬間に 生となる。
生と死は 一見すると反対のものだ。

表面的には 互いに反対物として働くが、奥底では 友であり、互いに 助けあっている。


誕生と死についてなら、この事情を理解するのも簡単だ。
ところが 無智と悟りの場合、それを理解するのは難しい。

普通一般の考えでは、悟りを開けば無智は すっかり消え去る。
これが 悟りについての普通の立場だ。
つまり、無智はすっかり消え去る。
しかし それは違う。

むしろ その逆に、悟りを開くと、悟りと無智の どちらも消え去る。
一方が 存在すれば、他方も 必ず存在する。
一方は 他方なしに存在できない。

そのふたつは、ともに存在するか、ともに消え去るかの どちらかだ。
ひとつの両面だ。
コインの 一面だけを消し去り、他面を 残しておくわけにはいかない。


だから ブッダになると、無智と悟りの 両方が消え去る。
そして 意識が残る。

対極性は消え去り、純粋な存在が残る。
葛藤し、対立し、助け合う反対物は、ともに 消え去る。


ブッダは 何度となく質問される ーーー「悟った人間には 何が起こるか」と。

しかし、彼は それに対して黙するだけだ。
ブッダいわく、
「それを尋ねてはいけない。何と答えても、嘘になる。
たとえば、『悟った人間は静寂となる』と言えば、静寂の逆が存在することになる。
そうでなかったら、どうして静寂が 感じられるだろう。
また、『悟った人間は至福に満ちる』と言ったら、苦悩が その隣に 存在することになる。
苦悩がなかったら、どうして至福が感じられるだろう」。

ブッダは「何と答えても 嘘になる」と言う。

だから彼は、悟った人間の状態については、いつも 黙ったままだ。


私たちの言葉は 二元的だ。
たとえば、私たちは「光」という言葉を使うが、誰かに「それを定義せよ」と 言われたら、あなたは
いったいどう定義するか。
きっと 闇を持ち出すだろう。

そうしなければ 定義できない。
きっと「光とは 闇のないことだ」などと言うだろう。


世界で もっとも偉大な思想家のひとり、ヴォルテールは かつてよく言ったものだ、
「まず 用語を定義しなければ、意見の交換はできない」と。

でも それは不可能だ。
もし 光を定義したかったら、闇を持ち出すことになる。
ところが、闇とは何か と聞かれたら、今度は それを光によって定義するほかない。
ところが その光は 未定義だ。
定義は すべて循環的だ。

昔から、「心とは 何か」と 問われたら、「物質でないもの」というのが その定義だった。
そして「物質とは 何か」と 問われたら、その定義は「心ではないもの」だった。

その用語は どちらも未定義だ。
結局それは、自分に対する ごまかしだ ーーー未定義の言葉を使って、ほかの言葉を 定義しようとする。

言語は 循環的であり、対立するものが不可欠だ。


だから ブッダは言う、
「悟った人間が存在するとさえ、私は言わない」。

存在が可能なのは 非存在がそこにあるからだ。

だから彼は、
「悟った後、その人間は存在する」とすら言えなかった。
なぜなら、存在の定義には 非存在が必要だからだ。
それで 何も言えなくなる。

言語は すべて、対極性によって成り立つ。
だからこそ、ウパニシャッドの中では こう言われているのだ ーーー「『自分は悟っている』と言う人間がいたら、その人間は 悟っていない。
なぜ 自分が悟っている と感じられるのか。
きっと どこかに 無智が残っているのだ。
その対照があるからこそ、そう感じられるのだ」と。


たとえば、黒板の上に 白墨で 何かを書く。
黒板が 黒ければ黒いほど 書いたものは白くなる。

白板の上に、白墨で書くわけにはいかない。
書いても 読めない。

対照が 必要だ。

だからもし、自分が 悟ったと 感じられるようなら、そこに黒板がある ということだ。
だからこそ、そう感じられる。

もし本当に 黒板が消え去ったら、書いたものも、やはり 消えるはずだ。
それは 同時に起こる。

だから ブッダは、無智でもなければ、賢くもない。彼は ただ在る。

どちらか 一極に 彼を据えるわけにはいかない。
両極は ともに消え去っている。


両極が消え去るとは、いったい どういうことか。
両極は、出会うと 互いに打ち消しあい、消え去る。
あるいは、次のようにも言える ーーーブッダとは、もっとも無智が深く、そして もっとも悟った人間だと。

対極性は その極致に達し、そこに 出会いがあった------そして その出会いは 両方を無効にした。

マイナスとプラスが 一緒になった。
もはや マイナスもプラスもない。
両方は 互いを無効にした。

マイナスは プラスを無効とし、プラスは マイナスを無効とした。

どちらも消え去り、純粋な存在、無垢な存在が残る。

それは 賢いとも 言えなければ、無智だとも言えない。
あるいは、その両方とも言える。


悟りとは、非二元性へと 飛び込む地点だ と言える。
その地点の前には 二元性があり、そこでは すべては分かれている。


誰かがブッダに、「あなたは誰ですか」と 尋ねた。
ブッダは 笑った。
そして、
「それを言うのは 難しい」と言った。


2️⃣に 続く