saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

タントラ秘法の書🔟「空の哲学」by OSHO

第三章 ーーー 第二の技法。 1️⃣
「欲求と闘わない」

“自分の全意識をもって、
欲求の冒頭、「知ること」の冒頭において、知る。”


この技法の基本点は、「全意識」だ。
全意識を ある対象に持っていけたら、それは 変容をもたらす力となる。

変容が起こるのは、何かの中に すべてを注ぎ込んだときだけだ。
その対象は 何でもいい。

これは 難しい。
どこにいても 私たちは、いつも部分的だ。
決して 全面的ではない。


あなたは、ここで私の話を 聴いている。
この「聴いていること」もまた変容となる。
もしあなたが 全面的に ここにいたら、まさに今 この瞬間にいたら、もしあなたの すべてが聴いていたら、その 聴いていることが瞑想となる。

そうしたら あなたはきっと、エクスタシーの別次元、別世界へと入っていくだろう。
ところが あなたは 全面的でない。

それこそが 人間のマインドにまつわる問題だ。
いつも 部分的だ ーーー 一部は聴いているが、ほかの部分は 別のところにあったりする。

眠っているかもしれないし、話の意味を 考えているかもしれない。
すると 分離が生じる。

分離は エネルギーを浪費させる。
だから 要は、何でもいいから 自分の全存在を挙げて行なうことだ。
何も 手控えることなく、ほんの一部の分離もなく、すべてをもって飛び込む。
自己の 全存在を挙げて その中に入れば、どんな行為でも瞑想的になる。


こんな話がある。
ある日、臨済が庭仕事をしていた。
臨済は 禅師だった。

すると男がひとり、近寄ってきた。
男は 哲学的な質問を抱いていた。
哲学的な 探求者だった。

男は 庭仕事をしている臨済に近寄っていった。
でも それが臨済だとは知らなかった。
庭師か使用人だと思っていた。

そこで、臨済はどこかと 尋ねた。
すると臨済は言った、
臨済は いつもここにいる」

男は思った、「この庭師は 頭がおかしいようだ『臨済はいつも ここにいる』とか言う。
この男には もう何も尋ねないほうがいい」。

そこで ほかの人間に尋ねようと思い、その場を去ろうとした。

すると臨済は言った、「行っちゃいかん。
臨済は どこにも見つからない。
いつも ここにいる」。
しかし男は この狂人から逃げだした。

その後 ほかの人間に尋ねると、最初に出会った人間が 臨済だとわかった。
そこで男は 戻ってきて言った、
「どうも失礼しました。
てっきり気違いかと思いました。
ところで、お聞きしたいことがあります。
真理とは何でしょうか。
どうしたら それを知ることができるでしょう」。

臨済は言った、
「何でも好きなことをすることだ。
ただし、自分の すべてをもってする」

何をするかは 重要ではない。
肝心なのは 自分のすべてをもってすることだ。

「たとえば」臨済は言った、
「この穴を掘るとき、私のすべては この掘るという行為の中にある。この私は、あますところなく、すべて、穴掘りの中に入っている。
もはや 掘り手さえも残っていない。掘ることだけがある。
掘り手が残っている ということは、自分が 分割されているということだ」


たとえば、私の話を聴いているとき、聞き手が残っていたら、あなたは まだ全体ではない。
しかし、ただ聴くことだけがあり、聴き手が残っていなかったら、あなたは 全体であり、今ここにいる。
そして 今この瞬間が瞑想となる。


シヴァは スートラの中で言う、

“自分の全意識をもって、欲求の冒頭、「知ること」の冒頭において、知る。”


欲求が自分の内部に生じたとき、タントラは「それと闘え」とは 言わない。
それは 不毛だ。

誰も 欲求とは闘えない。
それはまた愚かでもある。
内側のものと闘うのは、自分自身と闘うことだ。
そうしたら 精神分裂になる ーーー 人間性が分裂してしまう。

いわゆる宗教は みな、人間を少しずつ 精神分裂に追いやる。
誰もが分裂し、そして自分自身と闘っている。
それも いわゆる宗教が、
「これこれは悪い。してはいけない」と言うせいだ。
だとしたら、その悪い欲求が生じたら どうするか。
それと闘い続けるほかなくなる。


「欲求と闘うな」と タントラは言う。
べつにそれは、欲求の犠牲になれ ということではない。
また、欲求に耽溺しろということでもない。

タントラは 非常に微妙な技法を与える。
欲求が生じつつあるときに、自己のすべてをもって 覚醒し、自己のすべてをもって それを見つめる。

「見ること」になる「見る者」を 残しておかない。
自分の 全意識を、この生じつつある欲求へと持ってくる。

これは じつに微妙な技法だ。
でも すばらしい。
この効果は 奇跡的だ。


理解すべきことが 三つある。

ひとつ。
欲求が すでに生じてしまったら、もう何もできない。
そうしたら 欲求は最後まで行く ーーー その円環が完了するまで 進んでいく。
あなたには どうしようもない。

何かができるのは、始めのときだけだ。
すると、種子は その場で焼かれる。
ところが、いったん発芽し、木が成長し始めたら 難しくなる------何かしようとしても、ほとんど不可能だ。
何をしようとも、エネルギーを浪費するばかりで、あなたは ますます苦悩し、苛立ち、消耗していく。


欲求が 生じるとき、その冒頭、その最初の一瞥、その最初の閃きの時点で、自分の全意識を挙げ、存在の すべてを挙げて、その欲求を見る。
何もしない。
ほかには何もいらない。

ただ全存在をもって 火のように見つめれば、その種子は燃える ーーー 何の葛藤も、何の闘いも、何の争いもなく、存在全体をもって 深く見つめれば、今まさに 現れようとしている欲求は、すっかり消え去る。

何の闘いもなく 欲求が消え去ると、そこに 大きな力がみなぎってくる。
巨大なエネルギーと、途方もない覚醒が現れる。
それは 想像もできないほどだ。


2️⃣へ つづく