saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「空の哲学」by OSHO (市民出版社)

3️⃣ Pp 273 〜 278

(…だから、瞑想しているときでも結果のほうを見ている。そして何が起ころうと、それに不満足だ。)


こんなことを言いに来る人々がいる、
「たしかに瞑想は成長しています。 進んでいます。
だんだん幸せに感じるようになり、また少しばかり静寂に、平安になりました。
でも、ほかに何も起こりません」。

いったい「ほかに何も」とは何か。
こうした人間は、後日 必ずやって来て、きっと こう言うだろう、
「たしかに私は、ニルヴァーナを感じます。
でも、ほかに何も起こりません。
私は 至福でいっぱいです。
でも、ほかに何も起こりません」。

「ほかに何も」とは何か。
こうした人間が 求めているのは、何らかの利益だ。
はっきり 目に見える利益を手に入れないかぎり------銀行に預けるようなものを手に入れないかぎり、満足しない。

静寂や幸福は、曖昧模糊としたものだから、所有するわけにはいかないし、他人に見せるわけにもいかない。


これは 毎日のことだ。
人々は 私のもとに来て、
「たしかに瞑想は進んでいます」と言う。
ところが その顔は 悲しげだ。
つまり 彼らは 何かを期待している。
商売(ビジネス)の中でさえ 期待できないようなものを 、瞑想の中で期待している。

ビジネス-マインドが 瞑想の中に入ってくるーーー相当に訓練されたものだーーー「さて、いったい何の利益が得られるか」と。
そこには 遊びがない。


遊びに満ちていないかぎり、瞑想的には なれない。
要は もっともっと遊ぶことだ。
もっと遊びに 時間を費やしてみる。
子供と 遊ぶのもいい。
誰も いなくても、部屋の中で 跳ねたり踊ったりして、遊び、 楽しむ。

ところが あなたの心は 絶えず言いたてる、
「いったい何をやっているんだ。
時間の無駄だ。
そんな時間があったら、何か 稼げるじゃないか。
何かできるじゃないか。
それなのに、跳ねたり、歌ったり、踊ったりしている。
いったい 何をやっているんだ。
気でも狂ったか」


だから、何とか時間を見つけ、ビジネスから抜け出して 遊んでごらん。
なんでもいい。
絵を描いてもいいし、シタールを弾いてもいいし、何でもいい。
でも 遊びでやってみる。

何の利益も、何の未来もなく、ただ 現在に居る。
すると、やがて 内側でも遊べるようになる。
自分の思考の上に乗って、それと 遊べるようになるーーー思考を あっちに投げ、 こっちに投げ、一緒に踊ったりする。
ただし、そのことで 深刻になってはいけない。


人間には 二種類ある。
ひとつは、自分の心(マインド)に関して 無意識な人間だ。
その種の人間は、心に 何が起ころうとも、それについて 無意識だ。
心の中に漂うばかりで、自分が どこに連れていかれるかを知らない。


心の道筋に気づけば、あなたは きっと奇妙に思うだろう。
心は 連想によって動く。

たとえば、通りで 犬が吠える。
その吠える声が あなたの心に届き、そして 事が始まる。

この吠え声が きっかけで、ときには 世界の果てまで連れていかれる。
たとえば、犬を持っている友人のことを思い出す。
すると 犬のことは忘れ去り、その友人が 心に現れる、そして、友人には妻がいて、その妻は 美人だ------こうして移っていく。
そして世界の果てまで達しながら、決してそれが「犬の仕業」だったとは思い出さない------決して「たんなる吠え声が 自分をレールの上に乗せ、そして 自分は動き出した」とは 思い出さない。


みなは きっと首を傾げるだろうが、科学者は 次のように言う。
このレールは 各個人の心の中に固定されている。
もし同じ状況下で 同じ犬が吠えたら、その人間は 同じレール上を進むーーー友人、犬、その妻 、美人妻------それを 再び繰り返す。


現在、電極を使って、人間の 脳のいろいろな実験が行われている。

たとえば、脳の ある一点に触れると、特定の記憶が出現する。
突如、五歳の自分が現れ、庭で遊び、蝶を追いかけている。
そして それに関連した全体が現れるーーー気持ちがいい、すべては快適だ、空気も、庭も、匂いもーーーこうした すべてが、よみがえってくる。
それは たんなる記憶ではない。あなたは それを再び生きる。
そして 電極が引き抜かれると、その記憶は 停止する。

そして再び その一点に 電極が触れると、同じ記憶が 再開するーーー五歳の自分、同じ庭、同じ蝶、同じ匂い、一連の 同じ出来事だ。


電極が 引き抜かれると、その 記憶は消え去り、また電極が当てられると、その記憶は 現れる。
まさに機械的に 記憶しているかのようだ。
いつも 同じところから始まり、同じところで終わる。
何度 行っても同じだ。
ちょうど テープレコーダーに録音してあるようなものだ。
人間の脳には 何百万もの記憶がある。
何百万もの細胞が記録をしている。
そして それは、みな機械的なものだ。


人間の脳に対する こうした実験は、きわめて奇妙で、また きわめて示唆に富んでいる。
脳に蓄えられた記憶は、何度も何度も再生可能だ。
ある実験者は 三百回 試しているが、そのつど同じ記憶が現れる。
つまり 記録されているわけだ。
そして 何度も何度も実験していると、被験者のほうは、非常な とまどいを感じる。

なぜなら 自分が主体ではないからだ------自分では どうしようもない。
電極が その場所に触れると、その記憶が始まり、自分は それを見せられる。

この 三百回の間に、彼は だんだん観照者になっていった。
その記憶を見ているうちに、自分と その記憶は別物だと気づくようになった。
この実験は、瞑想者にとって、きわめて有用なものとなるだろう。
「マインドとは、自分を取り巻く機械的記録だ」と 気づくとき、もはや 自分とマインドは 分離している。


このマインドは 触れることもできる。
科学者たちは、そのうち 人間に苦悩を与える中枢を切断できるようになるだろうと言う。
これもまた同じことだ。
触れれば すべてが再生される。


私は今まで、たくさんの弟子たちを相手に いろいろな実験をしてきた。
ある特定のことをすると、彼らは 同じことを繰り返すーーー何度も何度も。
それが機械的だと 自分で気づかないかぎり。

たとえば、妻に向かって 毎週 同じことを言ってみる。
きっと妻は 反応するだろう。
七日たって、妻が忘れたころ、また同じことを言う。
彼女は 反応する。
それを 記録しておく。
その反応は 同じはずだ。

自分も知っているし、妻も知っている------パターンは固定化し、それが続いていく。
犬が吠えても パターンは始まるーーー何かが刺激される。
電極と同じだ。
そして 旅が始まる。


生活の中で 遊べれば、心の内側でも 遊べる。
そうすればもう、テレビの画面上で 何かを見ているようなものだ。
自分は 関わっていない。
ただの見物人だ。
傍観者だ。

それを見て、楽しめばいい。

良いとか 悪いとか言わない。

誉めたり 貶したりしない。

そんなことをしたら深刻になってしまう。

裸の女が画面に現れても、「これは悪い」とか「どこかの悪魔が 悪戯をしている」などと言わない。
別に 悪魔が悪戯をしているわけではない。
映画のスクリーンだと思って 見ていればいい。

そして 遊び心を持つ。

その御婦人に言うのだ、「どうぞ ご自由に」。
追い出そうとしてはいけない。
追い出そうと すればするほど 現れてくる。
御婦人方は 難しいものだ。
また 追いかけてもいけない。
追いかけたら 面倒なことになる。

追いかけてもいけないし、闘ってもいけない。
これが 規則だ。
ただ見て 遊ぶ。

快活に「やあ」とか「おはよう」とか 声をかけ、見ていればいい。
手出しは無用だ。
その御婦人の 好きにまかせる。
そうすれば 自分で去っていく。
現れたときと 同じように、自分から 去っていく。
彼女は あなたと関係ない。

記憶の中にある物だ。
それが 何かの状況に刺激され、そこに現れた というだけだ。ただの 絵だ。
遊んでいればいい。

もしマインドと 遊べたら、マインドは すぐにも落ちる。

マインドが存在できるのは、あなたが深刻なときだけだ。

深刻さこそが、その連結環、その橋だ。


“優美な者よ、遊べ。
宇宙は 空っぽの貝殻、
その中で あなたの心は 無限に戯れる。”



タントラ秘法の書 第10巻
「空(くう)の哲学」
講話 / OSHO
翻訳 / スワミ-アドバイト-パルヴァ (田中ぱるば)
発行者 / マ-ギャン-パトラ
発行所 市民出版社