saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「空の哲学」by OSHO (市民出版社)

1️⃣ 第七章 (第二の技法) 活動の中で遊ぶ
Pp 266 〜 270

“優美な者よ、遊べ。
宇宙は空っぽの貝殻、
その中であなたの心は無限に戯れる。”


この技法は、「遊び」の次元に基礎を置いている。
次の点を 理解するように。

非活動的であるときには、もちろん 深い空(くう)の中に入るのがいいーーー内なる深淵の中に入るのがいい。
でも、一日じゅう 空虚であるわけにはいかないし、一日じゅう 受動的であるわけにはいかない。

きっと 何かをする必要がでてくる。
活動は、基本的に必要だ。
さもないと 生きていられない。
生は 活動を意味する。
だから 一日のうち、数時間は 非活動でいられても、残りの時間は どうしても活動的になる。

瞑想とは、生き方そのものと なるべきものであり、断片と なるべきではない。
さもないと 獲得と喪失を 繰り返すだけだ。


一時間のあいだ 非活動的であれば、二十三時間は 活動的になる。
すると 活動的な力のほうが 大きくなるから、非活動の中で 獲得されたものは、みな破壊されてしまう。

活動的な力が それを破壊する。
翌日になっても 同じことだ。
二十三時間にわたって 行為者を蓄積し、一時間 それを捨て去る------それは難しい。

だから、仕事や活動についても その姿勢を変えることだ。
そこで この第二の技法がある。


要は、仕事を 仕事ではなく、遊びとみなすことだ。
仕事を 遊びとみなす。

ただの ゲームとみなし、深刻にならない。
ちょうど 子供が遊ぶように、意味もなく、達成すべきものもなく、その活動 そのものを楽しむ。

少し 遊んでみれば、その違いが 感じられるだろう。
働いているとき、あなたは深刻で、重荷を担い、責任を持ち、あれこれ心配している。
結果を追い求め、仕事それ自体は 楽しみに値しないーーー大事なのは、未来や結果だ。


遊びには 結果がない。
その過程が 至福に満ちている。
心配することもないし、深刻なものでもない。
たとえ 深刻に見えたとしても、見せかけだ。
遊びは 過程を楽しむ。

仕事は 過程を 楽しむものではなく、何よりも 結果だ。
その 結果を達成するために、とにかく過程を我慢することになる。
もし、過程となる 活動なしに結果に到達できるなら、きっとあなたは 活動を省いて 結果へ一飛びするだろう。


遊びの場合は そうではない。
遊びなしで 結果に到達できたとしたら、その結果は 意味がない。
結果が意味を持つのは、過程があるからこそだ。

たとえば、サッカーチーム同士が グランドにいたとする。
その勝ち負けを、コインを投げて 決めたらどうか。
どうして わざわざ苦労する必要があるーーーへとへとになってまで------。
コインを投げれば、まったく簡単に 決まるではないか。
その場で わかる。
一方が 勝ちで、他方が 負けだ。
なぜ がんばる必要がある。

でも、そうすると 意味がなくなってしまう。
結果には 意味がない。 過程こそが 大事だ。

たとえ勝ち負けが なかったとしても、その 試合に 意味がある。
その活動 そのものが 楽しまれる。


この 遊び という次元を、生の 全体に適用するのだ。
要は、何をしていようとも、その結果が どうでもよくなるくらい 全面的に、その 活動の中に入ることだ。

結果は 現れるかもしれない。
結果は 必ず現れる。
結果は きっと現れる。
でも、あなたの頭に それはない。
あなたの心に それはない。
ただ 遊ぶだけ、楽しむだけだ。


クリシュナが アルジュナに語る 言葉の意味も、そこにある、「未来は神の手に委ねよ------行動の結果は、神の手に委ねよ。 ただ行え」。

この、ただ行うことが 遊びとなる。

その点が、アルジュナには理解しがたい。
彼いわく、もしそれが ただの遊びだったら、なぜ 殺すのか、なぜ戦うのか (古代インドを二分した大戦争マハーバーラタに際し、 戦いをためらう大将アルジュナに対してクリシュナは戦いを勧める)

アルジュナの場合、仕事なら 理解できるが、遊びは理解できない。
ところが クリシュナにとっては、生が そっくり遊びだ。
これほど 深刻でない人間は どこにも見当たらない。
生涯が そっくり、ただの 遊び、ただのゲーム、ただの 芝居だ。

彼は すべてを楽しみ、そして それについて深刻にならない。
すべてを あくまでも楽しみ、結果については 心配しない。
何が どうなろうと、どうでもいい。


クリシュナを 理解するのは、アルジュナには難しい。
彼は あれこれ算段する。
結果から ものを考える。
ギータの冒頭で 彼はこう言う、
「これはまったく不条理だ。
私の友人や親戚が両陣営に分かれ、戦おうとしている。
どちらが勝とうと損失だ。
私の家族や、友人や、親戚が害を受ける。
たとえ私が勝ったところで、何の益があるだろう。
誰にその勝利を語るのか。
勝利に意味があるのは、友人や、親戚や、家族が喜ぶからだ。
ところが誰もいなくなってしまう。
その勝利のもとには死体がいっぱいだ。
誰がほめてくれるだろう。
誰が『アルジュナ、よくやった』と言ってくれるだろう。
だから、勝利しようと敗北しようと、どこに意味がある。
すべては不条理だ」。

彼は 俗世を去ろうとする。

まったく深刻だ。
あれこれ 算段する人間は、みな まったく深刻だ。


このギータの 状況設定は無類のものだ。
戦争とは、もっとも深刻な出来事だ。
遊びでは できない。
命に かかわるものだ。
何百万もの人々の 命にかかわる。
遊んでは いられない。

ところがクリシュナは、それにもかかわらず 遊べと言うーーー「結果がどうなるか考えずに、ひたすら 今ここに いなさい」と。
結末についての心配は無用だ。
結末は 神の手中にある。
いや、結末が 神の手中にあるかどうかは どうでもいいーーー大事なのは、それが 自分の手中にない ということだ。
あなたは それを背負っていない。
背負っていたら、その生は 瞑想的にならない。


2️⃣に続く