saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「覚醒の深みへ」by OSHO (市民出版社)3️⃣

Pp 44 〜

でも、これは社会にとって危険だ。
だからこそ、タントラは 抑圧された。
タントラは 危険だ!

何も不道徳ではなく、何も道徳的ではない。
何も純粋ではなく、何も不純ではない。
物事は あるがままだ。

真のタントラ行者は「泥棒は 悪い」とは言わない。
ただ こう言う、「この人間は 泥棒だ」------それがすべてだ。


そして「泥棒」という言葉を使っても、彼の 心の中には、それに対する 非難がない。
この「泥棒」とは たんなる事実だ。
非難ではない。

もし誰かが「この人は 偉大な聖者だ」と 言ったとしても、彼は言うだろう「なるほど!彼は聖者だ」。

でも そこには 何の価値判断もない。

彼は「この人間は良い」とは 言わない。
その代わりに、「なるほど!彼は聖者であり、あの男は泥棒だ」と 言う。
それはちょうど、「これはバラで、あれはバラではない」、「この木は高く、あの木は低い」、「夜は暗く、昼は明るい」と 言うようなものだ。

何の 比較も ない。


しかし、それは危険だ。
社会 というものは、一方を非難し 他方を称賛することなしには 存在できない。
社会は存在できない!

社会は 二元性の上に存在する。
だからこそ タントラは抑圧されたのだ。
タントラは 反社会的だ と思われた。

でもそれは 違う! 絶対に!
この 非二元的態度は 超越的なものであり、反社会的ではない。

超越的であって、社会を超えている。


試してごらん。
価値判断をせず、ありのままの 事実とともに、世界に向かうのだ。

誰々は かくかくで、誰々は しかじかだ。

それによって あなたは少しずつ、内側に 非分割を 感じるようになる。
あなたの両極は 一緒になる。
あなたの「善」と「悪」は 一緒になる。
両者は溶け合って ひとつになる。

そしてあなたは ひとつの統一体となる。

もはや 純粋なもの、不純なものはない。
要は 真実を知ることだ。


他の教えの純粋は、我々にとって不純だ。

タントラは言う------「他の教えの根底にあるものは、我々にとって害毒だ」。

たとえば この世には 非暴力を基本とする教えがある。
それによると、暴力は悪で 非暴力は善だ。

でも タントラによれば、非暴力は 非暴力であり、暴力は 暴力だ。
何が良く、何が悪い ということはない。


また、性的禁欲 つまりブラフマチャリヤを基本とする教えがある。
それによると ブラフマチャリヤは良く、セックスは悪い。

でも タントラによると、セックスは セックスだ。
ブラフマチャリヤは ブラフマチャリヤだ。
禁欲者である人間もいれば、そうでない人間もいる。
それは たんなる事実だ。
タントラには どんな価値づけもない。
タントラは けっして「ブラフマチャリヤは良い。 禁欲は良い。
そしてセックスをする人間は悪い」とは言わない。
タントラは 事実を ありのままに受け容れる。
なぜか。
それは 内側に 統一を作り出すためだ。


この技法の 目指すところは、内側に統一を 作り出すこと------トータルで 非分割的で 無葛藤で 無対立な存在を 内側に作り出すことだ。

そうして初めて 沈黙は可能となる。

何かに敵対し、どこかへ向かおうとしている人間に、けっして 平安はありえない。
どうして平安が ありうるだろう。
自分自身の内側で分割され、自分自身と 闘っている人間に、どうして勝利が 得られるだろう。
それは 不可能だ。
自分は その両方だ、だとしたら 誰が勝つのか。
誰も 勝ちはしない。
損害を こうむるばかりだ。
無用な闘いの中で エネルギーを 浪費してしまう。


この技法は 自分自身の中に 統一を作り出すものだ。
要は 谷を 消え去らせることだ。
裁いてはいけない。


エスは どこかで言っている、「裁くことなかれ、さすれば裁かれることなからん」。

しかしこれは ユダヤ人にとって 理解不可能だった。
そもそも ユダヤ的な観念というのは、「これは良く、あれは悪い」といった 道徳指向のものだ。

「裁くことなかれ」という イエスの教えは、タントラ的な言葉だ。
もし彼が殺されたとしたら------磔にされたとしたら、それは このせいだ。
彼は タントラ的姿勢をとっていた ---「裁くことなかれ」


だから「娼婦は悪い」と 言ってはいけない
どうして そんなことがわかるだろう。

また「純潔な人間は良い」と 言ってはいけない
どうして そんなことがわかるだろう。
どちらも 究極的には ひとつのゲームの 一端だ。

どちらも 相手の存在に基礎を置いている。

エスの「裁くことなかれ」という言葉は、このスートラの意味するものと同じだ。
「裁くことなかれ、さすれば裁かれることなからん」


もし裁くことなく、どんな道徳的立場もとらず、ただ真実を ありのままに観察し、自分の解釈を 押しつけることがなかったら、もはや 裁かれることはない。

完全な変容が到来している。
もはや どんな神的な力にも 裁かれることはない。
その必要がない!
もう 自分自身が 神的存在だ。
もう 自分自身が 神だ。
要は、裁き手ではなく、観照者に なることだ。



タントラ秘法の書 第六巻
「覚醒の深みへ」by OSHO
第一章 タントラ的覚醒の技法
(第二の技法) 裁かない

翻訳 スワミ-アドヴァイト-パルヴァ (田中ぱるば)
発行者 マ-ギャン-パトラ
発行 株式会社 市民出版社