saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「覚醒の深みへ」by OSHO (市民出版社)2️⃣

Pp 41 〜 44

もし誰かが ここで煙草を喫い始めたら、意識的には何も感じなくとも、あなたは すでに非難している。
奥底で、すでに それを非難している。
あなたの目に 非難の色があってもなくても、その人間のことを 見ていなくても、すでに そのことを非難している。


この習慣は 非常に深い根を持っている、だからきっと難しいだろう。
あなたは いつも、身振りによって、座り方によって、立ち方によって、非難し、称賛している。

そして自分のやっていることを 意識さえしない。
あなたは 誰かに微笑みかけたり 微笑みかけなかったりする、あるいは、誰かを見たり 見なかったり、あるいは 無視したりする。

それは いったい何か、それは 自分の姿勢を強いることだ。
「何々は 美しい」と言うためには、何かを醜いと言って 非難することが必要だ。

そして この二元的姿勢は 同時に あなたを分割し、あなたの中には ふたりの人格が 存在するようになる。


もしあなたが「誰々は 怒っている。 怒りは良くない」と 言ったとしたら、自分が怒りを感じたときには、いったい どうする。
きっと「これは良くない」と言うだろう。
すると 問題が生じる。

「これは良くない、 私の中の怒りは悪い」と言うことは、自分自身を 内側で ふたりの人格に分割することになる ---つまり「悪い人間、 邪悪な人間」と「良い人間、 聖者」だ。


もちろん、あなたは必ず 内側の聖者に同化し、そして内側の悪魔や サタンや鬼を非難する。
あなたは ふたつに分割される。
そこには 不断の闘いが、葛藤がある。

もはやあなたは 一個人ではなく、群衆だ------内部で対立抗争する 一軒の家だ。
もはや そこに平安はない、静寂はない。

あなたの感じるものは、緊張と苦悩だけだ。
これこそが あなたの感じているものだ。
でもあなたには その理由がわからない。


分割された人間は 平安でありえない。
どうして平安でありえよう。
自分の悪魔は どうする。
あなたは それを破壊したいのだが、それは自分だ。
だから 破壊するわけにはいかない。

あなたは ふたつではない。
〈存在〉は ひとつだ。
でも自らの 分割的な姿勢のせいで、あなたは 外側の存在を 分割している。
その瞬間、内側もまた それに従って分割される。
誰もが 自分自身と 闘っている。

それはまるで 一方の手と闘っているようなものだ------左手で 右手と闘っているようなものだ。
でも そのエネルギーは ひとつだ。
私は 左右両手の中にいる。
私は その両方の中に流れている。
でも私は、
その両方を 敵対させる------右手と左手を敵対させ 闘争を創り出す ---偽りの戦いを。

そして ときどき自分自身をだまして、「右手が勝ち、 左手が敗けた」と 言う。
でもそれは 欺瞞だ、なぜなら私は 知っている ---その両方の 手の中にいるのは 私であり、いつでも私は 左手を勝たせ 右手を負かすことができる。
私 は その両方の中にいる。
手は 両方とも 私のものだ。


いかにあなたが、「自分は聖者を讃え、 悪魔を踏みつぶす」と 思っていても、いつそれを ひっくり返して聖者を下にし 悪魔を上にするかもしれない。
それによって 恐怖や 不安が生まれる。
あなたにとっては、何も確実ではない。

たとえば 今このとき、あなたは とても愛情深くて、内側の憎しみに打ち勝っているとする。
でも いつ何時、憎しみが頭をもたげ 愛を打ち負かすかわからない。
あなたは それが恐い。
それは いつ起こるかわからない。
なぜなら あなたは その両方の中にいるからだ。


タントラいわく、分割するな、非分割であれ。
そうして初めて 勝利は近い。

どうやって 非分割を保つか。
それは、非難しないことだ。
「これは良い、 あれは悪い」などと 言わない。


純不純の概念を すべて引っ込める。
何も言わずに 世界を見る。
無知になる ---あまり賢くならない。
レッテルを 貼らない。
ただ沈黙し、非難も称賛も しない。

もし世界について 沈黙していられたら、少しずつ その沈黙は 内側を貫くようになる。
もし 外側の分割がなくなれば、分割は 内的意識からも 消え去る。
なぜなら 両者は共存するもの だからだ。


3️⃣に つづく