saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「覚醒の深みへ」by OSHO (市民出版社)1️⃣

第一章 タントラ的覚醒の技法

Pp 37 〜 41
「裁かない」(第二の技法)

他の教えの純粋は、我々にとって不純だ。
真実においては、純粋でも不純でもない。


これは タントラの根本的な教えのひとつだ。
これを思い描くのは とても難しい ---なぜなら、これはどこまでも無倫理的、無道徳的だからだ。
私は「不道徳」とは言わない。
なぜなら タントラは 道徳や不道徳とは関係がないからだ。

タントラにとって、それは どうでもいい。
この教えのポイントは、純粋と不純、分割、二分法、二元性を超えて 人を成長させることにある。


タントラいわく、〈存在〉は 非二元的だ。
〈存在〉は ひとつだ。

いっさいの区別は 人為的なものだ。
区別 というのは 人為的なものだ。
い っ さ い の 区 別 がだ、区別 というのは人為的なものだ ---善悪、純不純、道徳ー不道徳、美徳ー悪徳、こうした概念は すべて人為的なものだ。

こうしたものは 人間の姿勢であって、真のものではない。
何が不道徳で 何が道徳か、それは あなたの解釈次第だ。


ニーチェはどこかで、「あらゆる道徳は解釈だ」と言っている。
ある国で 道徳的なことが、別の国では 不道徳になる。
イスラム教徒には 道徳的なことが、ヒンズー教徒には 不道徳になる。
キリスト教徒には 道徳的なことが、ジャイナ教徒には 不道徳になる。
あるいは、古い世代には 道徳的なことが、新しい世代には 不道徳になる。
それは 人間次第であり、ひとつの姿勢だ。

根本において、それは ひとつの虚構だ。

事実は ただひたすら事実だ。
裸の事実は ただひたすら事実だ。
道徳的でもなければ 不道徳でもなく、純粋でもなければ 不純でもない。


人類のいない地球を 考えてごらん。
そこでは いったい何が純粋で 何が不純か。

いっさいは 在 る 、ただ 在 る 。

何も純粋でなく、何も 不純でない。

何も良くなく、何も 悪くない。

人間と ともに、マインドが介入する。
マインドは 分割する。
「これは良い、あれは悪い」と マインドは言う。

この分割は、世界の中に 分割を生み出すばかりでなく、当の 分割者の中にも また分割を生み出す。

もし あなたが分割すれば、あなたも またその分割によって 分割される。
だから、自分の 内側の分割を 超越するためには、この外側の分割を 忘れ去ることだ。

つまりあなたは、世界に対してすることを、自分自身にも また行なっている。


シッダーヨガの もっとも偉大な師のひとり、ナロパは言う、
「ちょっとでも分割すれば、天国と地獄を作る」。
ちょっとの分割でだ!

でも私たちは いつも分割する。
私たちは いつもレッテルを貼り、非難し、また称賛する。


〈存在〉の あるがままの事実を見る。
それに レッテルを貼ったりしない。
そうして初めて タントラの技法は理解できる。

良いとか 悪いとか 言ったりしない。
事実に対し 自分のマインドを持ち込まない。
事実に対し 自分のマインドを持ち込んだとたん、そこにはすでに ひとつの虚構がある。
もうそれは 事実ではない、真実ではない。
それは 自分の投影だ。
このスートラはいう、


他の教えの純粋は、我々にとって不純だ。
真実においては、純粋でも不純でもない。


他の教えの純粋は、我々にとって不純だ。
タントラいわく、「他の教えにおいて きわめて純粋で、美徳だとされるものは、我々にとっては罪だ。
なぜなら彼らの 純粋の概念は 分割するからだ。
彼らの場合、何かが 不純なものとされる」


もし誰かを 聖者と呼んだら、それによって 罪人が生まれる ---どこかで 誰かを罪人にしてしまう。
聖者は 罪人なくして存在しない。

私たちのしている不条理を見てごらん ---私たちは 罪人を根絶しようと 努めている、そして罪人のない世界、聖者だけの世界を心に描き、夢に見る。
これは まったく馬鹿げている。
なぜなら 聖者は 罪人なしに 存在できないからだ。

両者は 同じコインの片面だ。
一方の面だけ破壊しようとしても無理な話だ。
両者は ともに存在する。
罪人と聖者は、切っても切れない仲だ。
罪人を根絶すれば、聖者もまた この世から消え去る。
でも気にすることはない。
聖者なんか消えるままにしておけばいい。
聖者であることに価値があったためしは 一度もない。


私たちは、「これは良い、あれは悪い」という具合に、世界に対して ひとつの姿勢、ひとつの解釈をとる ---罪人も聖者も その解釈の一部分だ。
「あれは悪い」と 言わないかぎり、「これは良い」と 言うことは不可能だ。
「悪い」は「良い」を定義するための 必要物だ。
だから「良い」は「悪い」に 依存している。

あなたの聖者は 罪人なしには ありえない。
存在できない。


聖者は罪人に 感謝しているにちがいない
罪人がいなかったら、存在できないのだから ---罪人との関係、罪人との 比較があればこそだ。

聖者が いかに罪人を 非難したところで、両者は 互いに 同一の現象の一部だ。
罪人が この世から 消え失せるのは、聖者が消え去って初めてだ。
また、罪悪がなくなるのは、美徳の概念が なくなるときだ。

タントラいわく、事実は真であり、解釈は偽だ。
解釈してはいけない。


真実においては、純粋でも不純でもない。

なぜか。
なぜなら、純粋や不純は、真実の上に押しつけられた 私たちの態度だからだ。
これを試してごらん。
この技法は 骨が折れる。
簡単ではない。
なぜなら私たちは 二元的思考に 慣れきっているからだ。
私たちは 二元的思考に基礎を置き、根づいている。
それで 私たちは、自分たちの 非難や称賛を 意識してさえいない。

2️⃣に つづく