saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「信心銘」第五章 空の世界 by OSHO

(第五章 空の世界, P. 214~抜粋)

欲望(マインド)とは、自己破壊過程だ。

欲望(マインド)が 消えないかぎり、人は いつまでも乞食のままだ。

何を獲得できても、それは、無益に終わる。

人は 満たされぬままだろう。


 だから、もし この欲望(マインド)を解体したら、空虚によって、初めて人は満たされる。

もはや自分はいない、全体になったのだ。
自分がいる間は、いつまでも乞食だ。
いなくなれば、人は 皇帝になる。


 インドで、乞食のことを「スワミ」と 呼んで来たのはそのためだ。

「スワミ」とは、主人、帝王を意味する。
サニヤシン(雲水)のために これ以上の言葉は見つけられない。

新しいサニヤシンに どんな名前を付けるか考えていた時、私は、これよりいい言葉を見つけられなかった。
どうも「スワミ」が 一番いいようだ。


「スワミ」とは、自分自身を完全に投げ出した人を意味する。

彼は もういない。

彼は 全世界に なった。
あらゆるものの主人になったのだ。

そうでないかぎり、皇帝でさえも乞食のままだ。
欲望し続け、求め続け、苦しみ続ける。



 “ もし粗いと細かいの区別をしなければ、
 偏見にも、意見にも、誘われることはない。”


 もし 粗さと 細かさとの間に、善と悪の間に、美しさと醜さの間に、これとあれとの間に 区別を設けなければ、区別し、差別しなかったら、人はすべてを ただあるがままに受け容れる。

自分の判断(マインド)を差しはさまない。
裁判官にならない。

ただ「そうなっている」と、言うだけだ。


 そこに 刺があれば、「そうなっている」と言う。
薔薇があれば、「そうなっている」と言う。

聖人がいれば、「そうなっている」と、罪人がいれば、「そうなっている」と言う。

そして 全体だけが知っている。
他の誰にも、なぜ罪人が存在するのかなど知り得ない。

そこには、何か理由があるに違いない。
だが、それは 全体が心配すべき神秘だ。

自分が心配するようなことではない。


 全体は、聖人も、罪人も、刺も、薔薇も誕生させている。

その理由は 全体しか知らない。

人はただ、全体の中に落ちて行くだけだ。

そして どんな分け隔てもしない。

自分にも、その理由が分かる時が来る。
だがそれは、自分が全体になった時だけだ。

神秘は、本人が神秘そのものになった時、初めて解かれる。


 あなたが あなたでありながら、それを解くことはできない。

もし、今の あなたのままでいるなら、あなたは、大哲学者になることになる。
たくさんの答えを持つだろうが、それは 答えではない。

たくさんの理論を持つことにはなっても、決して真実は得られない。

だが、もし あなたが 神秘そのものになったら、その時は分かる。

だが その知識は あまりに微妙で、言葉にすることはできない。
その知識は あまりに逆説的で、あらゆる言語的制約を無視してしまう。

その知識は あまりにも矛盾していて---対極が その境界を失って、二つが一つになってしまっているからだ---どんな言葉も それを言い表わすことはできない。


 形態とは 言葉を意味し、背景とは 沈黙を意味する。

その知恵の中では、形態と背景は ひとつになる。
沈黙と言葉は ひとつになってしまう。
どうして それを言葉にできよう。

だが、それでもそれは言われなければならない。

なぜなら、渇くようにそれを求めている人が たくさんいるからだ。
それについて 聞いただけで、ある者のハートは、旅立つかも知れない。

だからこそ僧璨は、これらの言葉を語っているのだ。


 僧璨は、それが言葉になり得ないことを知っている。
なぜなら、それを言葉にすれば、どうしても区別せざるを得ないからだ。

何かを言う時には、どうしても、言葉を選ばなければならない。

何かを言うとなれば、どうしても、あれではなく、これを言わなければならない。
すると思考(マインド)が入って来る。


 だが、誰も僧璨ほど上手にやった者はいない。
比較を絶している。

これほど見事に 沈黙を言葉の世界に もたらした者を、他に見つけることはできない。
仏陀でさえ嫉妬を感ずるだろう。

この僧璨は 真の導師だ。

沈黙の師であり、言葉の師でもある。

この世ならぬものを、この世にもたらした。

一語一語を 自らの経験の 深い沈黙で貫いた。


 僧璨の言葉に耳を傾けなさい。
ただ聴くだけでなく、摂り入れてごらん。

自分のハートに 融け込ませるのだ。
記憶してはいけない。

自分の血流の中に流しこみ、自分の 血と骨にするのだ。

摂り入れ、それを食べ、消化し、そして忘れてしまいなさい。

そうすれば、それには 途方もない変容の力がある。

Pp. 214ー217


「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

著者 和尚(OSHO)
訳者 スワミ.パリトーショ
発行 (財)禅文化研究所