「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

「第二章 道は完全だ」(04)
(…だから、医学を学ぶには、西洋に行かなければならないし、瞑想を学ぶには、東洋に来なければならない。)


 だが、その両方が極端なのだ。
だから両方とも危険だ。

極端は 常に危険だ。
その危険とは、車輪が回転して、東洋が物質的になり、西洋が精神的になることもあり得るということだ。

それが起こりそうな可能性は 至る所に見える。
今や東洋は共産主義に転換しようとしているからだ。
これは物質主義の行きついたものだ。

一方 西洋は、精神主義に転換しようとしている。
そこに危険がある。

車輪は回転するかも知れない。

あなたたちは 外側の世界にあきあきしている。
内側に向かって動きたい。
内面の旅が必要なのだ。


 あなたたちは内面の旅に出かけるかも知れない。
ヒッピーを見なさい。
彼らは西洋の未来だ。
彼らは技術に反対している。
彼らは内向的だ。

全東洋を荒廃させ、東洋を崩壊の危機に陥れた、あの同じタイプだ。
技術に反対し、外側の清潔さに反対している。
ヒッピー以上に汚ない人間など見つからない。
風呂にも入らないし、着物も替えない。

連中は、そんなことは外側のことで、自分は内面の旅をしているのだと言う。
自分たちに興味があるのは瞑想で、衛生ではない、と。


 違う。
同じ愚劣さ、同じ極端、同じ対極だ。

魅力はある。
一方の極端に住みあきた思考(マインド)は こう言うからだ。
「あっち側へ行ってみろ。こっち側が うまくいかなかったのだから。
こっちの極端が失敗したのだから、あっち側へ行くべきだ」と。

だが、いいかね、極端から極端へ動くことは易しい。
しかし、極端は 決して人を満足させない。

東洋を見なさい。
内面への極端も充足ではなかった。
これもまた失敗だった。

内側か外側かの問題ではない。
均衡の問題だ。
均衡が成功するのだ、不均衡は失敗する。


 外側と内側は 二つのものではない。

どこで外側が終り、どこから内側が始まるのか。

印を付けられるかね。

境界線を引けるだろうか。
「ここで外側が終って、内側が始まる」などと言えるだろうか。

いったい どこで分けるのか。
二つは、分けられてはいない。

その分割は 頭(マインド)の区別だ。

内側も外側も ひとつのものだ。

外側とは、内側の拡張したもの、内面とは浸透して来る外界に他ならない。
それは ひとつのものだ。

ひとりの人間の 両手、両足、両目だ。


 外界は神の外側なのだろうか。
そんなことは あり得ない。
何ひとつ神にとって よそごとではあり得ないし、何ひとつ 神の外側ではあり得ないからだ。

全体は 外界も含まなければならない。

全体は 内面も含まなければならない。

全体にとっては、外側も、内側もない。

これが 僧璨の言うことだ。
彼は言う。

 外側の もつれの中にも、

 内側の空無の中にも、住んではいけない。

 穏やかに、何を求めるでもなく、

 大いなる 一体性の中に とどまるがいい。

 そうすれば、誤った物の見方は 自ずから消えよう。

 略---


「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

1993年 7月 1日 初版
著者 和尚(OSHO)
訳者 スワミ-パリトーショ
発行 (財) 禅文化研究所
    京都市中京区西ノ京壺ノ内町 花園大学
印刷所 大日本印刷株式会社