「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

「第二章 道は完全だ」(02)


 そうなったら、解決されるべき問題など何もない。

〔生〕は もはや謎ではない。

それは 生きるべき、楽しむべき神秘、踊るべき舞踏だ。

そうなったら、人は〔生〕との どんな葛藤の中にもいない。

そうなったら、人は ここで何をやっているのでもない。

その時 人は ただ楽しんでいるだけだ。

その時、人は 至福に満たされている。


 これが 天国の意味するものだ---何をするようにも期待されていないところ、人が 至福をかせぎ出そうとはしないところ、至福が自然であり、人の上に降りそそいでいるところだ。

これは、今、そして ここで起こり得る。

それは 僧璨に起こった。

それは 私に起こった。

あなたにも 起こり得る。

もしそれが 一人の人間に起こり得るなら、それは すべての人に起こり得る。



“ 外側の物事のもつれの中にも、
 内側の空無の中にも、住んではいけない。
 穏やかに、何を求めるでもなく、
 大いなる一体性の中にとどまるがいい。
 そうすれば、誤った物の見方は自ずから消えよう。”


 外側と内側を 分けてはならない。
僧璨は、「自分は 外側に関心がある」と言ってはならない、と言う。


 二種類の人々がいる。
そして そのどちらも惨めになる。

C・G・ユング人間性を 二つのタイプに分けた。
そのひとつを 彼は外向的と呼び、もうひとつを内向的と呼ぶ。

外向的人間は 外の世界に関心がある。
行動的な世間的な人々だ。
こういう人たちは、富、名声、地位、権力を 追い求める。

彼らは 政治家になり、社会改革家になる。
偉大な指導者、大実業家になる。
物に、外側の世界に関心がある。

彼らは 自分自身には関心がない。


 他方、内向的な人々がいる。
彼らは あまり行動的な人達ではない。

何か しなければならないことがあれば、それをするが、そうでないかぎり、特に何かをしたい という欲求は持っていない。
目を 閉じたままでいたいと思う。

こういう人たちは 詩人、神秘家、瞑想者、思索家になる。
世間には関心がない。
自分自身にだけ興味を持っている。

彼らは 目を閉じて エネルギーを内に向ける。

だが 僧璨は、その両方が 間違っている、それは彼らが 二つに分かれているからだ、と言う。

外向的な人は いつも自分の内側で 何かが欠けているのを感じることになる。

非常な権力者になるかも知れないが、内面深くでは、自分が無能で、無力なのを 感じることになる。

外向的には 大変な富を蓄えたかも知れないが、内面的には 貧しさを感じることになる。

世間的には 偉大な成功者かも知れないが、よく見れば、本人は その内面の深くでは 自分が失敗者だと知っている。


 彼は 均衡がとれていない。
外側のものにばかり注意をはらいすぎた。

一方の 極端に行ってしまったのだ。

極端がある所には、必ず 不均衡がある。

そして 詩人、黙想家、神秘家であった人、いつも自分の 内側にとどまっていた人は、外側の 世間の中で豊かでないために、常に自分には 何かが欠けていると言う感じを持つことになる。

ところが、外側の世界もまた美しいのだ。

そこには 花があり 星がある。
日が昇り、川は流れ、滝はこだまする。

こういう人が貧しいのは、全宇宙を否定しているからだ。
一人で 洞窟の中に住んで来たのは 不必要なことだった。
その間に、動いて たくさんの神秘を、まわり中にある 無数の神秘を知ることができたのだ。

彼は閉じて、自分の内面に閉じこもったまま、囚われ人になっていた。

この二つは 両極端だ。


 極端を 避けなさい。

外側と内側を 区別してはいけない。

そして ユングのタイプのひとつにならないことだ。

外向的にも 内向的にも なってはいけない。


 僧璨は、「流れていなさい。平衡をとっていなさい」と言う。

外側と内側は ちょうど左脚と右脚のようなものだ。
なぜ 一方を選ぶ必要がある。
一方を選んだら、動きは すべて止まる。

それは 二つの 目のようなものだ。
もし、目を ひとつだけ選んだら、見ることはできるだろうが、見える世界は 立体的ではなくなる、遠近感は失われる。

人は 二つの耳がある。
一方だけを 使うこともできる。

自分は 左耳のタイプだとか、右耳のタイプだとか という考えに取り憑かれることもあり得る。

だがそれでは、損をする。
それでは、あとの半分の世界が 閉じられてしまう。


 内側と外側は、まさに 両目、両耳、両足のようなものだ。
なぜ選ぶのか。
なぜ選ばずに 両方を使わない。

それに なぜ分けるのか、自分は 一人なのに---左足と右足は、ただ 二つに見えているに過ぎない。
その両方の中を 自分が流れている。

自分という 同じエネルギー、同じ存在が。

人は 自分の両目を通して見る。

なぜ 一方の極端に 動くのか。

OSHO


(03)に 続く---