saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「源泉への道」

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第五章「実在との対面」Pp. 175~177

(…なぜなら直接的には なにもできないからだ。
なにか方便が必要だーーそれによって あなたは内側に投げ込まれる。
この「中心」に対しては 間接的な働きかけが必要だ。
直接的な働きかけは不可能だ。
ここが 肝心な点だ。
これは ごく基本的なことだ。)

 たとえば あなたが なにかをして遊ぶ、それから後になって、その大きな喜びを語るーー
「楽しかった。本当に幸せだった」。
微妙な幸福感が 後に残る。

誰かが それを聞く。
彼もまた幸福を追い求めているーー誰もがそうだ。
彼は言う。
「それなら ぜひ僕も遊ぼう。
もし 遊びで幸福になれるなら、僕も ぜひやってみよう」。

彼も また遊ぶ。
彼は 直接、幸福に 喜びに 楽しみに 向かっている。

だが幸福は 副産物だ。

すっかり遊びに夢中になっているとき、結果として 幸福が生じる。
だが 絶えず幸福を 追い求めていたら なにも起こらない。
遊びが そのきっかけだ。


 あなたが 音楽を聴いている。
誰かが言う「これほどの至福はない」。
だが 絶えず直接に至福へと向かっていたら、聴くことさえ できなくなる。

至福への 関心や 執着が 障害となる。
至福は 副産物だ。
直接つかむことはできない。

あまりに繊細な現象だから、間接的に 近づくしかない。
ほかのことをしていると、それが起こる。
直接には つかめない。


 美しいもの すべて、永遠なるもの すべて、それは あまりに繊細なため、直接つかもうとすると 壊れてしまう。

だからこそ 技法や方便があるのだ。

これらの技法は しきりになにかをせよと言う。
その「すること」は 重要ではない。
結果として生じるものこそが重要だ。

あなたの マインドに必要なのは、「すること」つまり技法に向かうことだーー結果ではない。
結果は起こる、必ず 起こる。
だが、いつも間接的に起こる。

だから 結果に向かわずに、技法に向かうのだ。

可能なかぎり トータルに向かい、結果のことは忘れる。
それは 起こる。
しかし あなたが その障害となりかねない。


 結果だけに向かったら、それは 起こらない。

そして ひどくおかしなことになる。

人々は 私のところへ来て言う、
「お話によれば、瞑想すれば これこれが起こるそうですが、瞑想しているにもかかわらず これこれは 一向に起きません」。

たしかに そのとおりだ。

だが、彼らは その条件を忘れている。
結果のことは 忘れるのだ。
そうして初めてそれは 起こる。


 大事なのは、全面的に その行為に入ることだ。

その行為の中に全面的に 入れば入るほど、その結果は 早く起こる。

しかも それはいつも 間接的だ。
結果に対して 攻撃的であってはいけない。
暴力的であってはいけない。
それは ごく繊細な現象なので、攻撃には耐えられない。

結果が現れるのは、あくまで あなたが 別のことに没頭していて 内的空間が空っぽになっているときだけだ。

これらの技法は すべて間接的だ。

精神的(スピリチュアル)な出来事について、直接的な技法はない。

OSHO