saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

OSHO 講話の抜粋です。

(友人のFB より転載…)

最初に覚えておくことはこうだ。私が観照しなさいと言うとき、始めのうちあなたが観照するのは、身体や、思考だ……層また層、それをひたすら観照する。そして最後に、あなたはただ純粋な鏡を見つける----観照それ自体だ。それを純粋な鏡と呼ぶのも、観照しているものが何もないからだ。この「無」こそ、あなたの本性だ。
この無からすべてが生じ、そしてこの無へとすべてが溶けて入る。そして無になる覚悟があるなら----生きながらでも----あなたの生には、平安と静寂と、優雅の香りがただよう。
 
世の教育システム、一般通念はこぞって、あなたに対し、野心的になるよう、何者かになるよう強制する。でも何者かになることは、静かなプールに不安の小波を作ることだ。野心が大きければ、不安の波も大きくなる。欲望のせいで狂気にさえもなりかねない。何者かになろうと試みることは、不可能を試みることだ。なぜなら、あなたはもともと何者でもないからだ。

人はみな無であるけれども、その無に関する禅の見解は、ほかに類を見ないものだ。禅は何の野心も教えないし、ほかの何者かになれとも教えない。禅がひたすらあなたに示しているのはこうだ----自分の存在の一番深いところで、あなたは今も無だ。あなたは今も原初の純粋さを担い、それは「私」という観念によってさえも、汚染されていない。
だから観照しているときに、あなたは「私は無を体験した」と言うけれども、無を体験したとすれば、あなたは存在しないはずだ。無を体験するとは、あなたがいなくなって、無があるということだ----水面に波が現れては消えるようなものだ。

無を観照するのはあなたではない。あなたはまた小さな「私」を創り出しているが、その中には野心の世界が丸ごと入っている。無を体験するとは、あなたがいないということにほかならない。そして、途方もない歓喜がやってくる。なぜなら、野心や欲望や緊張にかかわっていたエネルギーがすっかり解き放たれ、踊りになり、至福になり、静寂になり、途方もない洞察になるからだ。しかし、それはいかなる「私」とも関係ない----根っこのない純粋な白雲で、自由の中に浮かび、理由もなければ方向もない。 <存在>の全体がその家となる。それはもはや、自らを分かつことがない。この非分割こそ仏性の究極な開花だ。自分がいないと知ることは、もっとも偉大な知だ。

質問の中であなたは、この全てを知覚する者は「誰もいない」のか尋ねている。もしこの「誰もいない」が、何かを知覚するとしたら、それはまだ「誰もいない」になっていない。もし何も残っていなかったら、知覚する者もおらず、すべては<存在>の中に溶け去る。

禅は世界で唯一、<存在>に即した宗教だ。すべての宗教はあなたの欲望を糧としている----分離したい、個々別々でいたい、特別になりたい、自己を実現したい、聖者になりたい……。こうしたすべては、臆病な病気だ。

禅とは勇敢なステップだ。
勇敢さでそれに勝るものはない。
無と静寂への量子的飛躍だ。

「誰が静かなのか」と聞くようであれば、あなたは静かではない。「誰がこのすべてを知覚し、観照しているのか」と聞くようであれば、あなたはまだ、私が示している無には至っていない。
そして、これはちょっと考えれば分かることだが、存在することでいったい自分が何を得たか----災難だ。禅が示してくれるのは、非存在の道、災難のすべてから抜け出す道、静寂の道だ。
誰もいなくなったとき、瞑想はその開花に至る。この「誰でもないこと」の花、無の花こそ<存在>の高処の究極的な表現だ。そうでなければ、あなたはいつまでも小さな誰かのまま、閉じ込められている。どうして全体にならないのか。大海に落ちることが可能であるのに、なぜいつまでも雫のままで、いろんな種類の死を恐れ、陽光の中に蒸発するのを恐れているのか。
ちょっと大海に飛び込んで、消え去ればいい。大海そのものになればいい。これは同じことを言い換えたまでだ。「無になれ」というのは、「すべてになれ」ということだ。

<存在>の中に消え失せる。するとあなたは花と咲き、鳥といっしょに空を飛び、雲になり、大海になり、川となる。けっして、「私」を伴った何か特別な人になるのではない。「私」こそが問題だ、唯一の問題だ----そしてまわりにたくさんの問題を創り出す。

そもそも禅の体験とは、無‐私、無‐自己の状態に入っていく体験だ。そうすると問題もなくなる。尋ねる者もいなければ、答える者もいない。


OSHO:禅宣言-自らの解放 #6