…FB で、友人がシェアしている OSHO 講話の抜粋記事です。

六尺の身体の内に、
天地が未だ現れる前にあった形を求め、
努力しなければならない。

そして
あなたの六尺の身体のなかでは、
その本質が、
天地がつくられる前からあった
その本質が、
今もなお息づき、鼓動している。

禅の人々はそれを
「本来の面目」と呼んでいる ―
天も地も、何ひとつ生まれず、
いっさいのものが姿を現さず、
沈黙だけがそこにあり、
物音ひとつ立たなかったとき……
形がなく、
すべて無相であり、
あらゆるものが
種子の状態であったときに
そこにあったもの。

その本来の静寂が
あなたの内側にある。

ヒンドゥー教徒
それを「アナハトナッド」と呼ぶ。
仏教徒たちは
「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」
という
特有の表現をする。

それはあなたの内側にある。
それはあなたの真の姿だ。
それを味わえば、
あなたは不死になる。
それを味わえば、
あなたは黄金になる。
そうなったら
塵は変容して神々しいものになる。

錬金術はみな、
卑金属を黄金に
変容させることを目指している。

昨今の人々は
たった一時間か二時間坐って瞑目し、
ひたすら己の自我を見つめ、
それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方で
どうして何かを得ることができるだろう?

坐って瞑想しながら、
自分のエゴを見つめてばかりいる
といったことにもなりかねない。
人々が「観想」と呼んでいるものはそれだ。
彼らは自分たちの
思考を見つめているが、
見ている風景の
焦点を変えてはいない。

彼らにそれしか起こらないのは、
ふだんは実にたくさんのことに
心を奪われているので、
思考を見つめることができないからだ。
瞑想のために特別に坐ると、
しばしのあいだ世間を忘れ、
思考がふだんよりも鮮明になり、
思考に対してより敏感になる。
これは哲学者の心境だ。
哲学者はそのようにして考え、
推測し、哲学を組み立ててきた。
これは真の観想ではない。

そして
このようなやり方では、
自我を超え、死を超え、
時間を超えてゆくことなど
できるはずがない。
だが、
人間の目的はまさに超越にある。

くり返そう。
瞑想をしたければ、
見ている風景の
焦点を変えなければならない。
目を閉じて
自我を見つめているだけでは
役に立たない。

イギリスの偉大な哲学者、
デービッド・ヒュームは書いている。
「偉大な教師たちがそろって口にする
 『汝自身を知れ、瞑想をせよ』という
 金言や助言を何度も何度も
 聞いたり読んだりしたので、
 私も瞑想をやってみた。
 だが、内側には
 思考、記憶、空想、夢しかなかった。
 他には何も見つからなかった」

彼がそう言うのももっともだ。
彼は瞑想が何であるかを知らないからだ。
彼は哲学者、
世界でもっとも才能ある哲学者のひとりだ。
その論理は実に鋭く、
首尾一貫している。
が、
彼は瞑想者ではなく、
たんなる哲学者にすぎない。
その言葉通り、
彼はやってみたにちがいない。
彼は内側をさまよっている
たくさんの思考に
出くわしたにちがいない。
そこで彼は言う。
「自己もなく、静寂もなく、
 神も存在していない。
 こんなことをしても虚しいだけだ」

彼は取り逃がした。
まず見ている風景の焦点を
変えねばならないということに
気づいていなかったからだ。
思考を見つめる必要はない。

すきまを求め、
すきまをのぞき込まなければならない。
すきまを探し、
そのすきまのなかに飛び込まなければならない。
すきまに飛び込んでいたなら、
彼は思考が消え、夢が消え、
記憶が消えてゆくのを見ただろう。

あらゆるものが置き去りにされ、
しだいにそれは
遥か遠くに聞こえる物音になってゆく。
そしてある瞬間がやって来る……
それがすっかり消え失せると、
あなたは超越している。
あなたは向こう岸に到達している。


Osho - The Secrets Of Secrets