saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

OSHO 講話の抜粋記事です。

(FBに投稿された 抜粋/講話---)

光は
肉体のなかだけに
あるのではなく、
肉体の外だけに
あるのでもない。

ひとたび
内なる光を見たら、
あなたは
光は内側だけに
あるのではなく、
外側にもあることに
気づくようになる。
光は、
あなたのなかだけに
封じられているものではない。

いいかね、
暗闇は
個的なものだが、
光は
あまねく存在している。
死は
個的なものだが、
生は
あまねく存在している。
惨めさは
個的なものだが、
至福は
あまねく存在している。

惨めさが
あるためには、
あなたが
存在していなければならない―
孤立したあなたが
存在していなければならない。

そして
至福が訪れるためには、
あなたは
全体の一部になり、
全体と調和しなければならない。

光は
肉体のなかだけに
あるのではなく、
肉体の外だけに
あるのでもない。
山河大地は
太陽と月に照らされるが、
それはすべてこの光である。

ひとたび
内側に光を見たら、
光が至るところに―
月のなかに、
太陽のなかに―
あることに気づくだろう……。
光はすべて同じだ―
内なる光であろうが、
外側の光であろうが
変わりはない。

それゆえに
光はたんに
肉体のなかにだけ
あるのではない。
理解と明晰さ、
知覚と光明、
そして
(精神の)すべての働きは
この光に他ならない。

あなたが
月に見る光と、
内側にある
第三の目に見る光は
同じものだ。
それが
同じ光であることに気づけば、
内界と外界の違いは
もはやなくなってしまう。
内は外であり、
外は内だ。

それゆえに、
禅師は
「輪廻こそがニルヴァーナ」―
世間が、
この世間そのものが悟りだ、
と言う。
この身体がそのままブッダであり、
この世がそのまま楽園である、
と。

仏陀が光明を得たとき、
「不思議な、
 信じがたいようなことだが、
 私が光明を得たとたんに、
 全世界がともに光明を得た」
と言ったのはそのためだ。

何世紀にもわたり、
仏教の瞑想者たちは
それに瞑想してきた。
仏陀は何を
 言おうとしているのだろう?
 仏陀は何が
 言いたかったのだろう?
 『私が光明を得たとたん、
  全世界が光明を得た』
 とは?
 どうしてそんなことがありえるだろう?
 まだ光明を得ていない人は
 無数にいるのだから。
 仏陀は何を伝えようと
 したのだろう?」
瞑想者自身、
「少なくともこの私は
 光明を得てはいないのだから、
 全存在が
 光明を得ているはずがないではないか」
と考える。

仏陀にとっては
全存在が光明を得ている。
彼は、
内と外を分けているのが
エゴ―
自我という薄いカーテン―
にすぎないことに
気づいたからだ。
そのカーテンが落ちてしまえば、
内なるものもなく、
外なるものもない。

それゆえに、
仏陀は「私は光明を得た」
と言うことができない。
彼は
「生きとし生ける
 すべてのものが光明を得た」
と言う。
あらゆる樹々、
あらゆる川、
あらゆる山々、
あらゆる人々、
あらゆる動物たち、
あらゆる星々―
いっさいのものが光明を得た。

もはや彼には
分離したアイデンティティーが
ないからだ。
彼は、
あなたは光明を得ていると
言おうとしているのではない。
彼はたんに
こう言っているだけだ。

「『この私が光明を得た』
 とは言えない。
 ただ『私は束縛されていた』と
 言うことしかできない。
 ただ『私は無知だった』と
 言うことしかできない。
 ただ『私は苦しんでいた』と
 言うことしかできない。
 だが、
 今やその私がいないのだ」

<存在>は至福に満ちている。
<存在>は光に満ちている。
そして
内なる光と外なる光は同じものだ―
内なるものもなければ、
外なるものもない。
光が第三の目―ひとつの目、
唯一の目に入り込めば、
あらゆる区別が消える。
区別という区別がみな消え失せる。
虹は再び白一色の光線になる。

つい先日、
こういう質問があった。
「和尚、
 あなた自身は白を着ておられるのに、
 どうして私たちには
 オレンジ色の衣服を
 着ろとおっしゃるのですか?」

それはただの象徴であり、
あなたがたは複数の色が消えて、
何の区別もない
白い光線だけが残る地点に
到達しなければならないということを
示しているにすぎない。


Osho - The Secret Of Secrets