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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…FBに友人がシェアしている OSHOの抜粋講話です。

 
生における
最大の神秘は
生そのものではなくて、
死だ。
死は生の絶頂であり、
生の究極の開花だ。
死において、
生のすべての総計が出され、
死において
あなたは到着する。
生は
死に向かう巡礼の旅だ。
生まれ落ちたその日から、
死が近づきはじめている。
誕生の瞬間から、
死はあなたのもとに
近づきはじめ、
あなたは
死に向かって進んでゆく。

人間のマインドに起こった
最大の悲劇は、
彼が死に対立するように
なったことだ。
死に対立することで、
あなたは最大の神秘を
取り逃がしてしまう。
死に対立することは
また生そのものを
取り逃がすことでもある。
なぜなら、
それらは互いに深く
かかわりあっているからだ。
それらは別々のものではない。
生は成長であり、
死はその開花だ。
旅と目的地は
別々のものではない。
旅は
目的地において完結する。

死は
高まりゆくものの頂点として
受けとめられなければならない。
それによって
異なった視野が開けてくる。
あなたは
死を避けないようになり、
死に対立しなくなる。
その神秘に身震いし、
それを楽しむようになり、
それについて黙想し、
瞑想するようになる。

死は
さまざまな形でやってくる。
あなたが死ぬことは、
死の多くの形の
ひとつにすぎない。
あなたの
母親が死ぬとき、
それは
あなたの死でもある。
母親は
あなたに深くかかわり、
あなたの存在の
大きな部分を
占めていたからだ。
その母親が死ぬ。
あなたのなかの
その部分も死ぬ。
あなたの父親、
兄弟、姉妹、友人が死ぬ。
敵が死んだときですら、
あなたのなかの
何かが死んでしまう。
なぜなら、
敵もあなたの一部と
化していたからだ。
あなたは何かを失って、
何かが欠けてしまい、
もはや二度と同じではない。

だから、
死は
あなたが死ぬときだけに
訪れるのではない。
死は多くの道を通って
やってくる。
死は常にやってきている。
子どもの幼さが消えて、
青年になるとき、
あなたには見えないだろうか?
そこに死が起こる。
子どもの日々が終わり、
子供の日々が死んで、
その扉が閉ざされる。
後戻りすることはできないし、
取り戻すこともできない。
それは永久に去ってしまう。
子どもとしてのあなたは死んだ。
いつの日か
青春は老年へと移り変わる。
またそこでも死が起こる。
数えきれないほどの死がある。

実際のところ、
深く、貫くように見るなら、
自分が刻一刻と
死んでゆくのを
見ることができる。
なぜなら、
あなたは刻々と
変化しているからだ。
何かがあなたの存在から
抜け落ちてゆき、
何かがあなたの存在の中に
入ってくる。
一瞬一瞬が誕生と死だ。
あなたはこの二つの堤、
誕生と死のあいだを
流れている。
あなたの生の川は
誕生と死があってはじめて
流れることができる。
しかも
それは刻々と起こっている。

死は
きわめて静かに起こる。
その足音を
聞くことはできないし、
それはどんな音もたてない。
それは起こり続けている。
あまりにも
絶え間なく起こるので、
あなたはそれを
見ようとしない。
明白すぎるからだ。
明白なものは忘れられ、
生の一部になってしまう。
あなたは
突然起こることにしか
注意を払わない。
不意のものごとにしか
注意を払わない。
そして
死は絶え間ない。
だからあなたは
それに
いかなる注意も払わない。

・・・

どこかで誰かが死ぬと、
死は必ず
あなたの扉をもノックする。
人間だけではない。
犬が死に、
カラスが死に、
木の葉が色あせて
木から落ちる。
あなたは死んでゆく。
なぜなら、
私たちは
互いと入り交じりあい、
互いの一部となり、
互いの一員と
なっているからだ。
人間は孤島ではない。
私たちはみな
ある種の
結びつきのなかにある。
そして死は世界中で、
刻一刻、
無数の形で起こっている。
<存在>は死を通して生き、
死を通して自らを更新する。
死は最大の神秘だ。
生よりさらに神秘的だ。
なぜなら、
生は死へと向かう
巡礼の旅にほかならないからだ。


Osho - The Revolution