saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…FBに OSHO の抜粋講話を友人がシェアしています---。

直接、
探し求めることの
できないものごとがある。
ものごとが
貴重になればなるほど、
その中に間接的に
入って行かなければならない。

あなたは
真理が起こりうるように…
自分のまわりの状況を整える
何か別のことを
しなければならない。

真理を探し求めていくことはできない。

どこにいくのかね?
カブール?
クル・マナリ?
カトマンズ
ゴア?
それから、
家に帰る…とでも。

真理の探求者は
みなこのルートを通って行くが、
前にもまして
バカな顔になって家に帰ってくる。
彼らは何も見いだしていない。

どこに真理を探しに行くのかね?
あなたは道を知らない、
地図はない、
方角の見通しは立たない。

真理とは何で、
どこで、いつ悟ることができるのか、
誰も知らない。

ほんとうに真理を探し求める者は、
けっして真理を求めない。

むしろ逆に、
真実ではないもの、
真正ではないもの、
不誠実なものをすべてなくして、
自分をきれいにしようとする。

そして、
ハートの用意が整ったら、
純化されたら、
客がやって来る。

その客を見つけることはできない、
客を追い求めることはできない。

客はあなたのもとにやって来る。
あなたはただ
準備を整えなければならない。
正しい態度でいなければならない。

私はあなたが
スピリチュアルということばから
理解するような意味で
スピリチュアルだったことは一度もない。

私は真理を見いだすために
寺院や教会に行ったり、
教典を読んだり、
何かの修行についたり、
あるいは神を崇拝したり…
祈ったことなど一度もない。

それは私の道ではなかった。
だから、
確かにあなたは、私が
「スピリチュアルなことを
 何もしていなかった」
と言ってかまわない。

だが、私にとっては、
スピリチュアリティには
まったくちがった含みがある。

それには
正直な個性が必要だ。
どんな種類の依存も許されない。

それはどんな犠牲を払ってでも、
自らの自由を創造する。

けっして群衆には組みさず、
独りだ。
群衆が…
何か真理を見いだしたことは
一度もないからだ。
真理は
人びとが独りの中でのみ
見いだされてきた。

だから、
私のスピリチュアリティには、
あなたの
スピリチュアリティという考えとは
ちがった意味がある。

私の子どもの頃の話は、
もしあなたがそれを理解できたらだが、
いずれにしてもすべて、
これらの同じ質を指し示す。

それを
スピリチュアルと呼べる人は
誰も…いない。
私はスピリチュアルと呼ぶ。

それらは、
人間が熱望するものを
すべて私に与えてくれたからだ。

私の子どもの頃の話を
聞いている間は、
その中に在る、
ある質を探そうとするべきだ。
ただ話だけではなく、
細い糸のように…
私のすべての記憶を貫いて
流れている本来の質を…。

そして、
その細い糸がスピリチュアルだ。
スピリチュアルとは、
私にとっては
自分を見いだすという意味だ。

私はこのワークを
誰かほかの人に代わって
やってもらうことは
けっして許さなかった。

あなたの代わりに
誰かほかの人が
このワークをすることは
できないからだ。

そして、
直接的に
それをすることもできない。

それが起こる
ある一定の環境を
あなたは創らなければならない。
それはハプニング…
解放、覚醒、悟りだ。

これらの言葉はみな
絶対的に
ひとつのことを指し示している。

そしてそれはハプニングだ。
それが多くの人びとの中に
恐怖を生み出す。
「もし“それ”がハプニングだとしたら、
 いったい私たちは
 何をしたらいいのだろう?
 起こるときは起こるのだ」

そうではない。
“それ”はハプニングだが…、
それが起こるスペースを整えるために、
あなたは多くをすることができるのだ。

理解しない者には、
場を整えるというのは
スピリチュアルには見えないだろう。

だが
エンライトメントが起こったのだから…
それはスピリチュアルにちがいない。

どのような手段を用いようとも
実質的に正しかったということは、
結果が証明する。

従ってきた道が正しかったことは、
ゴールが証明する。


Osho - The Transmission of the Lamp