saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…「汝自身で あれ!」友人がFBに 投稿している記事です。

(OSHO 講話の抜粋です)

私は一度も
マスターを
持ったことがない。
マスターを
持たなかったというのは、
幸運だ。
過去世において、
2,3の生きたマスターに
ついたことがある。
彼らはビューティフルで、
愛すべき人々だった。
しかし、
一つのことは
私のにとって
ずっとはっきりしていた。
それは、
誰も私のインスピレーションの
よりどころになることは
できないということだった。

というのも、
インスピレーションという言葉は
危険だからだ。
最初は
インスピレーションで、
次にそれは追従になり、
その次には
イミテーション(物まね)に
なってしまう。
そして、
とどのつまり、
あなたは
カーボンコピー で終わる。

だから、
誰かから
インスピレーションを
受ける必要はない。
必要ないというだけではなく、
危険でもある。

ただこう見ていて、
それぞれの個人が
ユニークであるということを、
私は知った。
誰も自分以外の誰かに
追従することなどできないのだ。
が、
ある人は
インスピレーションを受けようと
やってみることはできる・・
何百万という人間が
何千年にも渡って
そういうことをやってきた。
何百万という
クリスチャンたち、
何百万という
ヒンドゥー教徒たち、
何百万という
仏教徒たち。
彼は何をやっているのか? 

ゴータマ・ブッダからの
インスピレーションを
受けようとして、
何百万という人々が
仏教徒になった。
そして、今、
彼らはブッダの足跡を
追おうとしている。
が、
彼らはどこにも到達していない。
到達できないのだ。

あなたは
ゴータマ・ブッダではない。
彼の足跡は
あなたには合わないし、
ブッダが履いた靴も
あなたに合いはしない。
あなたは
自分にぴったり合うサイズの
靴を探さなければならない。

ブッダはビューティフルだ。
が、
それは、
あなたがブッダのように
ならなければならない
ということではない。
それが
インスピレーションという
言葉の意味なのだ。
インスピレーションとは、
あなたがある人物に
非常に感銘を受け、
その人物が
あなたの理想像になり、
あなたは
その人物のようになりたい、
ということを意味する。
それが
人類全体を
間違った方向に
導いていってしまったのだ。
インスピレーションが
祝福ではなく、
災いになってしまった。

私はあなた方に
あらゆるところから学び、
あなたが出会う
あらゆるユニークな存在を
楽しんで欲しい。
が、
決して誰にも
追従してはならない。
自分以外の誰かの
生き写しに
決してなってはならない。
それは
存在が許さない。
あなたは、
ただあなた自身であることが
できるだけだ。
私はマスターたちとともに
いたことがある。
私は彼らを愛した。

しかし、
彼らのようになろうとする
その願望そのものが
私にとっては醜い。
一人で十分だ。
その人のような
二人目の人間は
存在を豊かにしない。
二人の
同じ人間がいるということは
存在の重荷になるだけだ。
私にとって
個人のユニークさは
大いなる真実だ。
あなたが、
ある人物が
ある次元において、
真実で真正であり、
開花していることを
見つけたなら、
その人たちを愛するがいい。

が、
覚えておきなさい。
その人たちは
自己の真正性ゆえに、
オリジナリティーゆえに
開花したのだということを。
だから、
その人たちに
追従するという
トラップにはまることに
注意しなさい。
自分自身で在るのだ。
ソクラテスの有名な言葉に
「汝自身を知れ」
というのがある。
だが、
その言葉は完結されねばならない。
その言葉は不完全だ。
「汝自身を知れ」
という前に、
「汝自身であれ」
という言葉が必要なのだ。

  • Osho