…FBに友人が投稿している記事です。

(OSHO 講話の抜粋)

「タオ」という言葉は、
本質的には”道”を意味する。
目的地については
何も語ることができない。
目的地はとらえがたく、
表現できず、
言語を絶している。
だが、
道についてなら
何かを言うことができる。
それゆえに道家の人々は
「神」
「真理」
ニルヴァーナ
という言葉を
一度も使わなかった。
いや、
彼らはたんに
「道」という言葉を使う。
仏陀は言う。
ブッダたちは、
 あなたがたに
 道を指し示すことしかできない。
 その道に従うなら、
 あなたがたは真理に到るだろう」

真理は
あなた自身の
体験でなければならない。
真理は誰にも定義できない。
だが、
道を定義することはできる。
道を明らかにすることはできる。
師はあなたがたに
真理を授けることはできないが、
道を授けることならできる。
そしてひとたび
道が明かされたなら、
あと必要なのは
その上を歩くことだけだ。
それは弟子によって
なされねばならない。

私があなたの代わりに
歩いたり、
あなたの代りに
食べることはできない。
私があなたの代わりに
生きたり、
あなたの代わりに
死ぬことはできない。
こういったことは
自分の力で
やらなければならない。
だが、
私は道を示すことができる。
私は道を歩いたことがあるからだ。

タオとはまさに”道”を意味する。

それみずからによって存在するものは、
道(タオ)と呼ばれる。

この定義は美しい。

呂祖は言う---
「それみずからによって
 存在するもの、
 他の力を借りる必要のないもの、
 人がその上を
 歩いても歩かなくても、
 つねに存在しているもの----」
と。

誰かが
その上を歩くかどうかは
問題ではない。
<道>はつねに存在している。
実際、
全存在がそれとは知らずに
<道>に従っている。
もし心して
<道>に従うことができるなら、
あなたの生は
大いなる祝福となる。
それと気付かずに
<道>に従うなら、
あなたはつまずき続ける。
あなたは<道>の喜びを
こころゆくまで
味わうことができない。

ある人を庭に
連れてくることはできるが、
その人は無意識かもしれない。
酔っぱらっていたり、
昏睡状態に陥っていたり、
クロロフォルムの影響下に
あるかもしれない。
その人を庭に
連れてくることはできるが、
彼は無意識だ。
鳥の歌声を耳にしても、
彼はそれに気付かない。
太陽に照らされ、
光を浴びても、
彼はそれに気付かない。
大きな樹の下の
涼しい木陰に寝かせてみても、
彼はそれに気付かない。
それが人間のありようだ。

私たちは
つねにタオのなかにいる。
なぜなら、
その外などというものは
ないからだ。
生きるとは
<道>のうえにあることだ。
生きるとは
神のなかに生きることだ。
息をするとは
神のなかで息づくことだ。

だが
大海のなかに住む魚が
海のことなど
すっかり忘れているように、
私たちは
タオのなかで暮らしながら、
タオのことを
すっかり忘れている。
むしろそれが
あまりに明白だからこそ、
私たちはそれを
まったく気にとめずにいる。
魚は大海をよく知っている---
魚は海のなかに生まれ、
一度もその外に出たことがない。
魚は海はあるのが当然だと
思っているから、
それに気付いていない。

私たちは
まさにこの<道>の上にいる。
私たちは神の内にある。
私たちはタオを通して
タオのなかに生きている。
なのに
私たちは
それに気付いていない。

タオは存在する。
なぜなら、
タオなくして
樹々は成長せず、
星は動かず、
血液は循環せず、
息を吸うことは
できないからだ。
生命は
消え失せてしまうだろう。

生命は
それを維持する
基本的な法則があって
はじめて存在しうる。
生命は
それを支える何かがあって
はじめて存在しうる。
森羅万象のなかにある
計り知れない秩序を見るがいい。
それは混沌ではなく、
秩序をもった宇宙だ。
万物の秩序を
成り立たせているものは
何なのか?
宇宙はなぜこれほど
調和に満ちているのだろう?
調和を保ち、
それを脈々と
流れさせている法則、
あらゆるものを
ひとつにまとめている法則が
あるにちがいない。

だが、
私たちは
それについて知らない。
自分自身の実存に関して
何も知らないにもかかわらず、
私たちは
みずからの実存を通して
タオと結びついている。

タオには
名前もなければ形もない。
それはひとつの精髄、
原初の精神である。

それは
私たちを取り巻いている
生命の大陸だ---
内にも外にもある
純粋な精髄エッセンス。
それは存在であり、
原初の精神だ。
タオはどんな名前にも
おさまりきらない。
すべての名前が
タオの名だ。
すべての形が
タオの形であるから、
タオには特別な形がない。
タオは数限りない姿で
存在している。
それは
樹にあっては緑となり、
花にあっては赤となる。
人間にあっては人間となり、
魚にあっては魚となる。

それは同じ法則だ。
「タオ」という言葉を
「神」に置き換えたとしても
同じことだ。
キリスト教徒や
イスラム教徒が
「神」と呼ぶものを、
道家の人々は「タオ」と呼び、
仏教徒は「ダンマ」と呼ぶ。
ユダヤ教徒はそれを
「ロゴス」と呼んでいた。
だが、
それらは
同じものを指している。
それはどんな名前にも
おさまりきらない。
あるいはどんな名前でも
言い表すことができる。

精髄(エッセンス)と生命は
見ることができない。
この二つは
天上の光のなかに含まれている。
天上の光は見ることができない。
それは両目のあいだに含まれている。

形は見ることができるし、
肉体は見ることができる---
肉体は形であり、
精髄を包み込んでいる物質だ。
だが、
精髄を見ることはできない。
精髄は目では見ることができず、
五感ではとらえることができない。
それは何も介さず、
直に感じ取らねばならない。

あなたは私の肉体を見ている。
私はあなたの肉体を見ている---
そこには器官が介在している。
私の目が、
あなたがここにいると告げている。
あなたの目が、
わたしがここにいると告げている。
だが、
本当にそうだろうか。
私たちは目に
だまされているのかもしれない---
目には時々だまされることがある。

夜、暗闇のなかで
一本の縄が蛇のように見える。
蛇だと思い込めば、
それは蛇と同じように作用する。
あなたは怖くなって走り出す。
あるいは、
砂漠のなかで、
ありもしないオアシスを
見ることもある。
それはたんなる投影による現象だ。
喉があまりに渇くので、
あそこにオアシスがあればいいという
願望が起こり、
その願望がオアシスを
そこにつくりだすからだ。
目はよく人をだます。
だから当てにはできない。

あいだにものを介在させて
知られる真理は、
つねに怪しく、
疑わしいままだ。
それは確実なものとはなりえない---
絶対に確かだとは言えない。
が、
絶対的な確証のない真理など
まったく真理ではない。
真理というものは
絶対に
確かなものでなければならない。
ほぼ確かでは通用しない。
となると
道はただひとつ---
真理はあいだに
ものを介在させずに
知られねばならない。
人はそれを直接、
端的に知らなければならない。
人はそれを
いかなる器官も介さずに
知らねばならない。
真理はまさに
そのようにして知られる。

生命を見ることはできないが、
それを感じ取ることはできる。
それは主観的な体験であって、
客観的な対象ではない。


Osho -The Secret Of Secrets