…友人がFBに投稿している講話抜粋記事です。

死は――
たとえ一瞥であっても、
たとえ
自分が
死ぬことが
あり得るのだという
観念だけでも――
その人の
存在全体を変容させる。
 
宗教というものが
姿を現したのは
死のおかげなのだ。
もし世の中に
死がなかったら、
宗教などというものが
存在する可能性はなかっただろう。
そして、
いまでも宗教というのは、
死というものに
ごくごく醒めた人たちにとってしか
存在しないのだ。
動物たちは
死に気づいていない。
だから、
樹々に宗教はないし、
動物たちにも宗教はない。

特に物質的な人間には、
普通の人たちよりも
動物的なところが残っている。
そういう人は
このいわゆる生の文脈でしか
ものが考えられず、
けっして何ひとつ
死のことなど考えない。
実際のところ、
彼は、
死のことばかり
考えている連中など
ちょっと倒錯している、
不健全だ、病気だ、
病的だと言い張るだろう。
彼は、
死という事実を
否定しようとしているからだ。
 
彼は死を恐れている。
誰でも、
自分に死を
思い出させるようなものを
持ってくる人はみな
敵のように見える。
 
物質的な文化、
物質的な社会は
死を避けようとする。
そのために
実にたくさんのトリックが
考案されてきた。
西洋では
ひとりの人間が死ぬと、
新しい服を着せたり、
顔に化粧を施したりする。
もしそれが女の人だと、
口紅も、眉墨も、
何から何まで塗りたくられる。
あなた方は、
みんなその人が
死んでいないように
感じさせようとする。
ビューティフルな柩や花束――
これはまさに逃避だ。
あなた方は、
誰か一瞬前には
生きていた人が
もう
生きていないということに
直面したがらない。

あなた方は
死をそのありのままに
見たがらない。
死の上にまで
仮面をかぶせる。
人びとは生きている間も
マスクをかぶって生きているが、
もっとひどいことに、
死んでもまだ仮面をかぶっている。
それはひとつのトリック、
自分自身の内奥無比なる恐怖に
面と向かわないようにするための
技術なのだ。
その上、
誰も彼も
「故人は天国に行かれました。
 神の世界へ行かれました。
 極楽に行って、
 とても幸せでしょう」
などと言う。

こんな話しを読んでいた。
メヤーズという
ある超心理学者が、
死について考えた。
誰か身近な人間――
親戚や妻や夫が
死んだときに
人間がどう感じるのだろうか? 
そこで、
彼は大勢の人たちに
問い合わせてみた。
ある日、
彼がパーティーに招かれて行くと、
つい2、3日前に
娘を亡くしたという
とても裕福な婦人に隣り合わせた。
そこで、
彼は尋ねた。
「どうお感じになりますか? 
 お嬢さんはいま
 どこにいらっしゃいますか?」

「もちろん」
その婦人は言う。
「あの娘は神とともにいて、
 そこで至福に包まれて
 幸せにしています。
 あの娘は天国にいるのです。
 けれども、
 どうかそんな
 気の重くなるような話題を
 持ち出さないでくださいな」

さあ、これは……
その二律脊反、
その分裂したマインドがわかるだろう。
「彼女は幸せです。
 天国にいて、
 神に至福に包まれて
 幸せにしています」
というのと、
「そんな気の重くなるような
 話題を持ち出さないで下さい」
というのと! 

もしその娘が
本当に神とともにいて
幸せにしているのだったら、
なぜそれが
気の重くなるような話題なのか? 
そして、
もしそれが気の重くなるような
話題なのだとしたら、
なぜそれを、
彼女が神とともにいて
幸せなどと言って
隠し続けようとするのか?

そうやって人間は
死を避けようとしてきた。
それは
宗教を避ける方法でもある。
なぜならば、
宗教というのは
死との遭遇以外の
何ものでもないからだ。
それは死とのデート、
死とのロマンスなのだ。
それは死への冒険なのだ。
宗教は
死と直面することを求める。
それはひとつの事実だ。
それを避けたところで
何にもならない。
宗教的なマインドは
それと直面し、
それが何であれ、
その中に深く
はいって行こうとする。
その真実は
知られねばならない。
そして、
その探求の中で、
瞑想や祈りやヨーガが
起こってきたのだ。

だから、
誰かがひどい病気にかかって
重態になるようなことがあったら、
その機会をのがさないこと。
ある雲間が晴れている。
そして、
そうした瞬間こそ、
その人間に
一条の光線を見ることが
できるのだ。
その人がそれを見るのを
助けるがいい。
そしてもし、
あなたがその人を
愛しているならば、
それこそ
あなたがその人に
たずさえて行くことのできる
最大の贈り物にほかならない。


Osho - Dance Your Way To God