…友人の FB 投稿記事です---

(OSHO 講話の抜粋)

あなたは
自分がどこにいるのか
言うことができない....
「場所」そのものが
消え失せている
その空間を
正確には指し示せない。
あなたは
どこにもいないか、
あるいは
至るところにいるか、
ありうるのは
このいずれかだ。
どちらも同じことを
意味している。

「人は至るところにいる」
と言うことを選んだ
小数の者たちがいる....
ヴェーダーンタ学派は
「深い瞑想のなかで
 人は至るところにいる....
 アハム・ブラフマースミ、我は神なり」
と言うことを選んだ。

「神」とは、
至るところにいる者、
全存在にゆきわたっている者
という意味だ。
あなたは空間そのものになる。
「私はつねに在った、
 永遠に在る」とは、
あなたが時間のなかに
遍満しているという意味だ。
これがそれを表現する
ひとつの方法、
肯定的な方法だ。

仏教は別の方法、
否定的な表現を選んだ。
仏陀はこう言う.....
深い瞑想のなかでは、
あなたは
どこにも存在していない。
空間はすべて消えている。
そして時間も存在せず、
あなたは時間のない状態にある。
時間も空間もないとしたら、
あなたはどうして
存在できるだろう?

人間は時間と空間が
交わる地点においてのみ存在する。
時間の線と空間の線が交わると、
その交点に自我(エゴ)が立ち現れる。
この二つの線を取り去れば、
自我という点は消えてしまう。
それは二本の線の交差にすぎない。
それは誤った観念だった。

だから仏陀
「誰も存在していない」と言う。
深い瞑想のなかでは、
時間が消え、
空間が消え、
そしてあなたが消える。
いっさいのものが消え失せ、
そこには<無>、
シューニヤ、ゼロのみがある。
これは同じことを
否定的な仕方で語ったものだ。

肯定的な表現を選ぶなら、
「私は神だ」と言うこともできる....
それにはそれなりの危険があり、
また独自の美しさもある。
あるいは否定的な表現、
アナッタ、無我、<無>、
涅槃(ニルヴァーナ)を
選ぶこともできる。
これにも独自の美しさがあり、
またそれなりの危険もある。
<無>というまさにその観念が
人々の意欲をそいでしまう
危ないのはそこだ。
<無>でありたいと誰が望むだろう?
四十年にわたる伝道生活において、
仏陀は何度も何度も尋ねられた。
「なぜ人は<無>であろうと
 しなければならないのですか?
 それは死、
 究極の死ではないですか?」

すると仏陀は言う。
「その通りだ。
 それは究極の死だ。
 だが、それは美しいものだ」

質問者が尋ねる
「ですが、
 それは誰にとって
 美しいのですか?
 だって
 誰もいないはずでしょう?」

すると仏陀は言う。
「ただ美しさだけが、
 至上の幸福だけがあって、
 それを体験する者はいない」

人間のマインドが
こう言うのも無理はない。
「でも、
 自分がそこにいないのなら、
 何もならないじゃないか....。
 それが
 とても美しいというのは
 すばらしいけど、
 自分がいなければ、
 美しかろうとなかろうと
 何の違いもないじゃないか。
 どうして
 自分を無くさなければ
 ならないのだろう?
 大して美しくはないけれど、
 少なくとも
 この私が存在している
 世間にいるほうが
 まだましだ」

<無>という終着地は
人々の意欲をそいでしまう。
仏教がインドから
姿を消したのは
そのためだ。
彼らは教訓を学んだ。
それは中国では
否定的な言語を落とした、
チベットでは
否定的な言語を落とした。
インドの仏教
原始仏教は完全に否定的だった。
仏陀の感化を受けて
何千もの人々が
変容を遂げたのだが、
仏陀のような人を
つねに見いだすということは
できない。

仏陀の影響力は
あまりにも大きかったので、
人々は死んで<無>になる
用意さえできていた。
それは仏陀ゆえに
起こったことだ。
さもなければ
<無>であることには
何の魅力も、
人を誘う力もない。
が、
仏陀の磁力が
あまりにも強かったので、
仏陀のカリスマが
あまりにも強かったので、
何千もの人々が
みずから進んで
<無>になろうとした。
仏陀がそうおっしゃるのなら、
 それは正しいにちがいない」
と。
仏陀の言葉には
それほどの重みがあり、
その目がすべてを実証していた。
「彼が消えてしまったのなら、
 私たちも消えてしまおうではないか。
 仏陀がそうおっしゃるなら、
 信頼してもいい」

だが、
ひとたび仏陀
この世から姿を消すと、
仏教の僧侶たちは
人々を説得することが
できなくなった。
彼らはインドから
完全に姿を消さねばならなかった。
彼らはそこで教訓を学んだ。
インドの外で、
仏教は肯定的な言語を
使いはじめた。
仏陀が否定したすべてのことを
使いはじめた。
それは生き延びた。
だが、
仏教として
本当に生き延びたのではなく、
ヴェーダーンタ学派として生き延びた。
肯定的な言語として生き延びた。
だが、
仏陀の最大の貢献は
否定的な表現にあった。

否定的な表現の美しさは、
人のエゴを少しも満足させたり、
少しも喜ばせたり
しないことにある。
肯定的な言語の危うさは
そこにある。
アハム・ブラフマースミ....
「我は神なり」、
アナル・ハック....
「我は真理なり」
と言うときに危険なのは、
真理が二義的なものになり、
その「我」が
一義的なものになって
しまいかねないということだ。
真理はあなたの影になって
しまうかもしれない。
力点が
「私」という言葉に集まり、
「私こそが神だ」と
なってしまうかもしれない。
神に力点が置かれ、
「私」が神に対する
たんなる影であり続けるならば、
何も問題はない。
だが、
それはひじょうにむずかしい。

その「私」はじつにずる賢い。
エゴの手口はじつに巧妙だ。
それは機会をとらえ、
その観念に飛びついて、こう言う。
「その通り、
 私が神であり、
 他の者たちはそうではない。
 私が真実であり、
 他の者たちはみな偽物だ」
だが、
そうなったら
肝心な点が
そっくり見逃されてしまう。
いずれにせよ
ひとつだけ確かなのは、
時間と空間が
消えてしまうということだ。


Osho - The Secret Of The Secrets