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 (OSHO 講話/抜粋---)


あなたは着物ではない、
心理的な着物ですらない。
モーゼのことを思い出してほしい。
モーゼが神に直面したとき、
山上で緑の茂みから
燃えあがる火のような神を見たとき....
茂みは燃えてはいなかった、
茂みはいつものように
青々として、鮮やかだった
モーゼは当惑した。
彼は我が目を疑った。
ありえない光景だった・・・
このような火が!
茂みは炎のように燃えているのに、
焼けてはいなかった。
と、
そのときモーゼは
茂みから声が響いてくるのを聞いた。
「モーゼよ、
 靴を脱ぎなさい。
 おまえは聖なる地にいるのだから」
これは最も美しい
ユダヤ教の寓話のひとつだ。

神は火だ。
あなたの人格はまさに茂みだ。
そして神は涼しい火であり、
あなたの人格を焼くことはない。
人格は緑の葉を
繁らせ続けることができる。
神はあなたに多くの自由を与えた。
あなたが偽者でいたいと望むなら、
それは許される。
神には何の支障もない。
あなたがまがいものでいたければ、
それは許される。
自由とは、
正しくあってもいいし、
間違っていてもいい....
それはあなた次第だということだ。

あなたの本質はそこにある。
その炎はそこにある。
そしてまた
あなたの人格もそこにある。
人格は偽者だ。

だから
「内なる火はどうして
 人格を焼かないのだろう?」
と思うのも無理はない。
その火は涼しい。
その火は
人格を焼くことがない。
あなたがその人格を
まとうと決めたら、
火はそれを許す。
あなたはその人格という
緑の葉をまとい続け、
人格はその葉むらを
もっともっと
繁らせ続けてゆくことができる。
あなたはますます
偽者になってゆき、
完全な偽者に
なってしまうこともある。
あなたは人格という
虚構のなかに
我を失うことができるが、
神はそれを
邪魔しようとはしない。

このことを、
神はけっして
邪魔をしないことを、
自由は
全面的なものであることを
覚えておきなさい。
それが人間の尊厳、
人間の栄光であり、
苦悶でもある。

自由が与えられていなければ、
あなたは偽者にはならない。
他の動物は偽者ではない。
動物は人格をもっていない。
ただし愛玩動物ペットは別だ。
彼らは人間とともに
生活することで、
破壊され、
人格をもちはじめるからだ。
飼い犬たちは
みずからの本質を忘れてしまう。
飼い犬は腹を立てていても
尻尾を振り続ける。
これは人格だ。
彼は主人が誰か知っている。
主人のエゴをどうやって
満足させるか知っている。
彼は
駆け引きを身につけている。
彼は
ニューデリーに住んでいる人々と
同じくらい駆け引きがうまい。
彼は尻尾を振り続ける。

ときどき犬が当惑しているのを
たことがあるだろうか?
見知らぬ人がやって来ると、
犬はどう振る舞えばいいのか、
見知らぬ人に
どんな顔をすればよいのか
わからなくなる。
わけがわからなくなって、
彼は吠えた...
たぶんそれが
一番いいやり方なのだろう
それでも尻尾は振り続けている。
犬は家に入ってきた人が
敵なのか味方なのか、
主人がそれとなく
示してくれるのを見守っている。
敵であれば、
尻尾を振るのをやめる。
味方であれば、
その人に吠えかかるのをやめる。
犬はしるしを、合図を、
主人がどう振る舞うのかを待っている。
犬は主人の影になってしまっている、
もはや本当の犬ではない。
人間とともに
生活することで影響を受け、
人間たちに損なわれてしまう。

人間は生活をともにする
動物たちさえ破壊してしまう。
あなたは動物が
生まれながらにもつ
本質を許さない。
あなたは自分が
文化を身につけたように、
彼らに文化を教え込む。
あなたは本性が
自然の道すじをとることを
許さない。
あなたはタオが
みずからの
道すじを流れることを
許さない。

本質とは、
あなたがこの世に
もち込んでくるものだ。
人格とは、
世間がその本質の上に
押しつけるものだ。
世間は本質をひどく恐れている。
なぜなら、
本質はつねに
反逆的だからだ。
本質はつねに
個的なものだからだ。

そして世間は
いかなる<個>をも
必要としない。
それが必要とするのは羊だ。
世間は
反逆的な人々を必要としない。
世間は仏陀、クリシュナ、
老子のような人々を必要としない。
いや、
こういった人々は危険だ。
世間はおとなしい人々---
現状に従う、
既得権益に従う、
組織化された教会に従う、
国家や愚かな政治家たちに従う、
従順な人々を欲している。

社会は服従を求める。
社会は効率を求める。
あなたが
機械的になればなるほど
効率はあがる。
もっといきいきとしているときには、
あまり効率をあげられない。
機械は人間よりも効率がよい。
社会はすべての人間を
機械におとしめようと努力する。
人間を機械におとしめるには
どうすればいいか?
もっともっと
無意識にさせればいい。
もっともっと
ロボットのようにならせればいい。
人間の意識から本質を
完全に消してしまえばいい。
人間を完全なまがいものに
してしまえばいい。

夫にしたり、
妻にしたり、
使用人や、
社長や、
あれやこれやに
してしまえばいい。
が、
けっして本質的な自己に
ならせてはいけない。
それを許してはならない。
なぜなら、
その本質的な自己は
神以外の誰にも
従順ではないからだ。

それは他のものには
身をゆだねない。
それは源泉にしか
身をゆだねない。
それは他の主人を知らない。

こういったタイプの存在は、
現行の社会にとって
ひじょうに都合の悪いものになる。
なぜなら、
成長すればするほど、
あなたの自立は
いっそう高まるからだ。

成長が
遅れれば遅れるほど、
あなたの依存は
長びくことになる。
そして依存している人間は
うまく操ることができる。
なぜなら、
依存している人は
いつも恐れているからだ。
依存している人は
つねに寄りかかる相手を
必要としている。
かたときでさえ
寄りかかる相手なしでは
いられない。
彼は幼稚だ。
彼は両親に
よりかかっている。
彼は聖職者に
よりかかっている。
彼は政治家に
よりかかっている。
彼は自分の足で
立つことができない。
社会は、
ありとあらゆる着物を使って....
物質的な着物だけでなく、
心理的な着物も使って、
人間を覆い隠し続ける。

社会は
肉体があらわになることを
ひじょうに恐れている。
肉体があらわになれば、
心もあらわになってしまうからだ。
社会が裸の人を見ると
狼狽するのは、
それが口火を切るからだ。
肉体をさらけ出すなら、
彼は最初の一歩を踏み出している。
さあ、
彼が心理的に裸になるのを
誰が止められるだろう?

燃えあがる茂みから、
モーゼに呼びかけた声は
こう言った。
「靴を脱ぎなさい」

これはひじょうに象徴的だ。
それは
「着物をすべて脱ぎ捨てなさい」
と言っている。
「靴を脱ぎなさい」
靴はあなたの足を覆っている。
靴はあなたを覆っている。
「靴をはかず、
 裸足で地面に立ちなさい」
靴は人格を現し、
裸足は本質を表している。
「おまえは聖なる地に立っている。
 靴を脱ぎなさい」

みずからの本質、
みずからの内側で燃える茂みに
遭遇した瞬間、
あなたは靴を
脱がなければならない。
着物をすべて
脱ぎ捨てなければならない。
あなたの本質を隠しているものを
すべて脱ぎ捨てなければならない。
それが革命、
メタノイアだ。
それは生の転換点になる。
社会は消えて、
あなたは<個>になる。
そして<個>だけが
神と関わることができる。


Osho - The Secret Of The Secrets