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 (OSHO 講話/抜粋)

古池やかわず飛び込む水の音

これは松尾芭蕉
最も有名な俳句のひとつだ。
この俳句には、
目覚めた人々だけが
気づくことのできる
格別の味わいがある。

その美は
たんに審美的なものではなく
実存的なものだ。
そのかぐわしい香りは
悟りの境地から放たれる。

タオとはひとえに
何の但し書きもない、
形容もつかない、
ありのままの姿を指している。

タオとはただ
「そのようにある」
ということだ。

古池やかわず飛び込む水の音

俳句はふつうの詩ではない。

ふつうの詩は
空想から生まれる。
ふつうの詩は
マインドの産物だ。

俳句は
ただありのままの姿を映しだす。

意識は鏡になって、
目の前にあるものを映しだす。

鏡は映るものに影響されない。

その前を醜い人が通りすぎても、
鏡が醜くなることはない、
鏡には何の変化も起こらない。

美しい人が通りすぎても、
鏡が美しくなることはない。

映す相手が誰もいなくても、
鏡は前と同じで変わらない。

映しても映さなくても、
善いものを映しても
悪いものを映しても、
鏡は清らかなままだ。

目覚めた人の意識もそうだ。

芭蕉
仏頂禅師の弟子だった。
このとてつもなく美しい
俳句が生まれたとき、
芭蕉
古池のほとりにある
小さな庵で暮らしていた。

ある日のこと、
にわか雨があがると、
仏頂禅師は芭蕉のもとを訪れ、
「近頃のおまえの
 見解(けんげ)はどうかな?」
と尋ねた。

いいかね、
師は
「どんな知識を身につけたかな?」
と尋ねるのではなく、
「見解はどうかな?」
と尋ねている。

見解(けんげ)というのは
知識とはまったく別のものだ。
知識は借り物だが、
見解は自分自身のものだ。
知識は外からくるが、
見解は内側から生まれてくる。

知識は
手垢にまみれているので醜い。
そして知識は
けっしてあなたの
実存の一部にはなりえない。
それはいつまでたっても
異質なもの、
よそよそしいものであり、
あなたのなかに
根をおろせない。

見解は
あなたのなかから育ってくる。
それはあなた自身の開花だ。
それはまぎれもなく
あなたのものであり、
それゆえに美をそなえ、
解き放つ力を宿している。

真理はけっして誰からも
借りることができない。
そして借りてきた真理は
もはや真理ではない。
借りてきた真理は
すでに虚偽だ。
語られるやいなや、
その真理はたちまち嘘になる。

真理とは
体験されるべきものであり、
聞いたり、
読んだりするものではない。

真理はたんに
あなたが蓄えてきたものの一部に、
あなたの記憶の一部に
なるものではない。

真理は実存的なもので
なければならない。
あなたの実存の毛穴の
ひとつひとつが
それを感じなければならない。

そう、
それはひとつの
フィーリングでなければならない。

ひと息ひと息が
真理で
満たされていなければならない。

それはあなたのなかで脈動し、
あなたのなかを
血のように巡らなければならない。

真理が体得されると、
あなたはそれになる。

だから仏頂は弟子に向かって、
芭蕉
 近頃のおまえの
 見解(けんげ)はどうかな?」
と尋ねた。

そしてこの「近頃の」という
美しい言葉を忘れてはいけない。

真理はつねに成長している。
真理は動いている。

それは静的ではなく、
ピチピチと躍動している。
それは踊りだ。
それはそびえゆく樹々、
流れゆく川、
まわりつつける星々のようだ。

真理はけっして
いかなる意味でも
静的な現象ではない。
それは停滞したものではなく、
実にダイナミックに、
勢いよく動きまわっている。
いきいきとしているためには
動きつつけていなければならない。

死だけが静止し、
死だけがよどんでいる。
だから死んでいる人々も
うわべは生きているように
みえるかもしれないが、
真理がもはや成長していなければ、
彼らは死んでいる。
彼らの魂は
もはや成長していない。

真理とは観念ではなく、
あなたの実存そのもの、
あなたの魂そのものだ。

それゆえに師は
「 近頃のおまえの
 見解(けんげ)はどうかな?」
と尋ねた。
彼は過去のことを
尋ねているのではない。

知識はつねに過去に関わり、
空想はつねに未来に関わっている。

彼は現在のことを尋ねている、
現に目の前にあるもののことを
尋ねている。

芭蕉は答えた。

雨過ぎて青苔を流す

つい先程まで雨が降っていた。
雨はあがり、
青い苔がみずみずしく輝いている。

悪くはないが、
まだ充分ではない。
それはすでに
過ぎ去ったことであり、
現に目の前にあるものの
ことではない。

それは
すでに記憶になっていて、
今まさに
体験していることではない。

仏頂は満足しなかった....
悪い答えではなかったが、
まだまだだった。

そして絶妙な答えが出るまで、
意にピタリとかなった答えが出るまで、
師はけっして満足しない....
芭蕉のように
大きな力量を秘めた人物を前にしては
なおさらだ。

もはや芭蕉の師、
仏頂のことを知る者はいない。
彼はただ
芭蕉のおかげで知られている。

この弟子には
無限の力が秘められていた。
師はそうたやすく
満足することはできない。

それを覚えておきなさい!

器が大きければ大きいほど、
あなたには
困難な課題(ワーク)が課せられる。

師はあなたに
きびしい態度を取るだろう。
彼はあなたを
少しも容赦しないだろう。

芭蕉ほどの器を
そなえていない者の答えならば
それでもいい。
師はうなずいて
同意したかもしれない....が、
芭蕉はだめだ。

数分の間があいても、
ずれていることに変わりはない。
すでに雨はあがり、
空は晴れ、
太陽が顔をのぞかせ、
その光を
古池や、庵や、
あたり一面に投げかけている。

師は
「まだ言葉が足りない!」
と言った。

師が
「まだ言葉が足りない!」
と言うのは、
もっと言葉を加えなさい
という意味ではない。
彼は言葉の数が足りないと
言っているのではない。

彼はこう言っている....
もっと深みのあることを言いなさい、
もっと力強いことを言いなさい、
もっと実存的なことを言いなさい、
もっと内実のあることを言いなさい!

まさにそのとき、
蛙が池にポチャンと
飛び込む音が聞こえた。
彼はこう詠んだ。

かわず飛び込む水の音

さあ、これがタオだ....
現に目の前で、
あるがままに、
息づき、
脈動している、
まさにこの瞬間。

タオは過去を知らず、
未来を知らない。
タオはただひとつの時制
しか知らない....
それは現在だ。
タオは 今ここしか知らない。

みずからのマインドを
消えてゆかせれば、
過去もないし、
未来もない。
過去と未来は思考の産物だ。

実際に存在するのは現在だけだ。

そして過去もなく、
未来もないとしたら、
どうしてそれを
「現在」と呼べるだろう?
現在は過去や未来と照らし合わせて
はじめて意味をもつ。

現在は
過去と未来のあいだに
はさまれている。
過去と未来を取り去れば、
現在もまた消え失せる。

それがタオの瞬間だ....
時間が消え、
人はありありとその場にいて、
完全に今ここにいて、
過去の亡霊のあいだを
さまようこともなく、
まだ生まれていない未来の
心像のなかを
さまようこともない。


Osho - The Secret Of The Secrets