…友人の FB 投稿記事です。

 (OSHO 講話/抜粋)

あたかも
世間のなかに
いないかのように
世間で暮らすことができたら、
世間は
ただの夢にすぎないかのように
世間で暮らすことができたら、
突然、
大いなるエネルギーが....
散逸していた
エネルギーすべてが
あなたの内部で結晶化する。

あなたは
ありとあらゆるやり方で
エネルギーを散逸させてきた。
あなたは四方八方に漏らしている。
注目することで漏らしている。

あなたが
もはや漏らさなくなり、
注意力が
もはや不動のものとなり、
注意が内側に集まり、
内側で蓄積され、
内側で結晶化するとき、
中心が生まれてくる。
空観を実践しているときには、
万物を破棄しえないことを知りながら、
それらに気をとめないようにする。

人はこの夢が
つづいてゆかねば
ならないものであることを
知っている。

この夢はまた
美しいものでもある。

そこで
思い煩うことなど
何ひとつない。

捨て去らなくてもいい、
打ち壊さなくてもいい、
それと闘わなくてもいい。

あなたは
自分の影と闘ったりはしない。
あなたは
それが影であることを知っている。
それは影であると知っているから、
打ち壊したいとも思わない。

どこまでも
後をついてくるから、
けっして
あなたのもとを去らないから、
それのことを心配しない。

あなたはそれが
影であることを知っている。

この世間が
影であることを知ると……
実在の影であって
実在そのものではなく、
湖に映る月であって
月そのものではないと知ると、
人は世間の只なかにあってさえ
くつろぐようになる。

世間を
まったく気にもとめずに、
人はみずからの務めを果たし、
みずからの仕事をし、
飄々(ひょうひょう)としながら
暮らしつづけてゆく。

このようにして
三つの観想はひとつになる。

そうなったら
三つの観想は
もはや三つではなく、
それはただひとつの観想になる。

あなたは中心に
収斂してゆき、
中心を自覚するようになる。

グルジェフ
「自己想起」と呼び、
仏陀
「サマサティ」....留意....と呼び、
マハヴィーラが
「ヴィヴェック」と呼んでいたのは
このことだ。

今やあなたは
リアルではないものを見抜き、
現実と非現実を識別している。

今やあなたは
何が影であり、
何が実物であるかを
見抜いている。

あなたは実物の月を見たし、
水に映る月影も見た……
だが影はつづいてゆく!

影は
それが影であると
気づいたからといって
消えてゆくものではない。
それはつづいてゆく。

そして問題は何もない....
それは美しい!

湖のほとりに坐って、
月影を眺めていればいい....
それは美しいし、
何の問題も生じてこない。

だが、
あなたはそれが
実在しないことを知っている。

だが、
とどのつまりは
空を体得することで力が得られる。

だが、
覚えておきなさい.....
統合、結晶化は、
ひとえに
空を体得することから
生まれてくる。

それが瞑想の出発点になる。

それゆえに、
空観を実践するときには、
空は紛れもなく空であるが……

さあ、
あなたがたは
もう少し深く入って
ゆかねばならない。

いっさいが空であると知ると、
問題が生まれてくる。

あなたはその空を
何かしっかりとした
実体があるものだと
見なしはじめるかもしれない....
それが問題だ。

というのも、
マインドはいつも
言葉にとらわれてしまうからだ。

不思議の国のアリス』という
すばらしい本のなかに
こんな一節がある……

アリスが
王様のもとへ到着すると、
王様はラブレターが届くのを
今か今かと待ちわびていた。
彼は誰を見ても
「使いの者に会わなかったかね?」
と尋ねてまわる。
王様はアリスにも
「こちらへ向かっている
 使いの者に会わなかったかね?」
と尋ねる。

アリスが
「誰もいませんわ」
と言うと、
王様は彼女が
「ダレモイナイ」という名前の
誰かに会ったのだと思い込む。

王様は言う
「おまえよりも足がのろいやつじゃ、
 「ダレモイナイ」は。
 でなけりゃ
 とっくに着いておるはずじゃ。
 わしは何度も何度も
 同じ知らせを聞いておる。
 たくさんの者がここに着いたが、
 みんな口をそろえて
 「ダレモイナイ」と言う。
 なのにまだダレモイナイは
 到着していない!
 おまえよりも
 足がのろいやつじゃ、
 ダレモイナイは」

当然アリスは
「王様は
 何を言ってらっしゃるのだろう?
 私より足がのろい人は
 誰もいないですって?」
と考えて、
こう言い返した。
「誰もいないわ、
 私よりも足が速い人」
アリスは気分を害していた。

すると王様は言った。
「ダレモイナイは、
 おまえより足が速いのか?
 ではなぜそいつは
 まだ着かんのじゃ?」

話がこんがらがったわけに
気づいたアリスは、
「王様、
 ダレモイナイなんて人は
 誰もいないんです」
と言った。

すると王様は言った。
「もちろんじゃ。
 ダレモイナイは
 ダレモイナイに決まっておる。
 だが、
 そいつはどこにおるのかね?」
こうして話は
延々とつづいていった。

空でさえ
ものになってしまいかねない。

仏教哲学で
起こったのはそれだ。
哲学者はあたかも空が
神であるかのように、
空が生の本質そのもので
あるかのように、
空について語りはじめる。

彼らはあたかも
無が何ものかで
あるかのように、
無のことを語りはじめる。

無は言葉にすぎない。

自然のなかには
ノーは存在していない。
ノーは
人間が発明したものだ。

自然のなかでは、
すべてがイエスだ。
自然のなかには、
肯定的なものだけが
存在している。

否定的なものは
人間がこしらえたものだ。


Osho - The Secret Of The Secrets