…FBに 友人が投稿している(OSHO 講話/抜粋)記事です

 
生においては、
名詞は偽りであり、
ただ動詞だけが真実だ。
私たちは言語のなかに
名詞をつくりだした。
これらの名詞は
生に関して
ひじょうに誤った印象を与える。
それは正しくない。

いつか将来、
言語が
もっと実存的なものに
なるときがくれば、
名詞は消えて
動詞に置き換えられるだろう....
あらゆる名詞が。

川というものはなく、
川として流れゆくであり、
樹というものはなく、
樹としてそびえゆくだ。

なぜなら、
一瞬といえども
樹は静止していないからだ。
それはけっして
存在(イズネス)の状態にはない。
それはつねに
生成(ビカミング)し、
流れ、どこかへ向かっている。

<存在>は流動的であり、
ゆえに水、
「水中」がメタファーになる。

目撃者に気つけば、
第三のものが可能になる。

あなたは流れることの
美しさに気つくだろう。

安定を渇望したり、
現状がいつまでもつづくことを
願ったりしなくなる。

あなたは川とともに流れはじめ、
<存在>という川の一部になる。
あなたは変化を楽しむようになる。

人々は変化を心底から恐れ、
変化に対して
大きな恐怖を抱いている。
ものごとがよい方向に
変わってゆくときでさえ、
恐れる。
彼らは新しいものを恐れる。

心(マインド)というものは
古いものには実に賢く振る舞えても、
新しいものに出会うと
必ず当惑するからだ。
心は新しいものを
再びイロハから
習わなければならない....
誰が習いたがるだろう?

心は世界をそのまま
停止させておきたい。

社会が法を遵守し、
古い型を守るのは
まさにこの心があるためだ。
世界中で数限りない人々が
因襲にとらわれている。
なぜだろう?
そこにはかなりの資本が
投下されているにちがいない。
これは投資だ....
誰も学びたくはないし、
誰も成長したくはないし、
誰も新しいものに
慣れ親しみたくはない。

人々はどこまでも
古い型を守りつづけようとする。
が、そうなると当然、
退屈してくる。
そこで彼らは
「どうして退屈なんだろう?
 どうすれば
 退屈せずにすむだろう?」
と言う。
彼らは自分たちで
退屈をつくりだしておきながら、
退屈をつくりだした
そのからくりを見ていない。

大勢の人が
私のもとにやって来て、
自分は退屈していると言う。
「どうすれば
 退屈から抜け出せるでしょう?」
と。

退屈が問題なのではない。
退屈は副産物だ。
問題の奥にあるのは、
新しいものを探求する
用意ができているか?
冒険に出る
用意ができているか?
ということだ。

冒険とは賭けることだ。
それはよくなるかもしれないし、
これまで知っていたよりも
さらに悪くなるかもしれない....
それは誰にもわからない。

それに関しては
ひとつも確実なことは言えない。

生で唯一確かなのは、
それが不確かなものである
ということだけだ。
人は不確かさより
他には何も
当てにすることができない。

新しいものは
人をひどく不安にさせる。
彼らは古いものにしがみつく。
世界に
因襲にとらわれた人々がいるのは
そのためだ....
彼らは無用な重荷になっている。
彼らのおかげで
世界はよどんでいる....
彼らは古い型を踏襲することに
こだわりつづけている。

例えば、
インドの歴史は
ほぼ五千年に達するが、
マヌがつくりあげた社会構造は
そのまま残っている。
それは当時は
良いものだったかもしれないし、
何らかの意義があったにちがいないが、
五千年が経ったというのに
インドにはいまだに不可触賎民がいる。
触れることすら許されない人々がいる。
彼らは人間ではない。

正統派を自認する者たちは
彼らの影にさえ触れない。
かつてはそうだった。
今でもいくつかの村では、
不可触賎民、スードラが
通りを歩くときには
「どうかわきによけてください。
 そちらに行きますよ」
と叫ばなければならない....
というのも、
カーストの高い誰かに
影が触れると
罪になってしまうからだ。

彼は叩かれ、
へたをすると打ち殺される!
今でもこの罪を着せられ
焼き殺される人々がいるが、
この愚劣な社会構造は
五千年も生き延びてきた。
これほど非人間的なのに!
これほど非民主主義的なのに!

インドでは民主主義が
成功しそうにないのはこのためだ。
ヒンドゥー教の精神そのものが
民主的ではない。
精神構造のすべて、
心理的な条件つけが
民主主義に反しているのに、
どうして民主的な国を
うまくつくりあげることができるだろう。
民主主義において最も大切な基本は、
万人が平等であるということだ。

誰かが誰かよりも価値において
まさるというわけではない....
ところがヒンドゥー教徒
それを受け容れることができない。
事実、スードラ、不可触賎民は
人間として認められていない。
彼は人間ではなく、
家畜扱いをされている。
女を人間と見なすことはできない。
女性もまた家畜扱いをされてきた。

さあ、この種の精神....
それがどうして
民主的になりえよう。
だから
民主主義の名のもとにあるのは
混沌以外の何ものでもない。
なぜなら、
民主主義の基盤が
存在していないからだ。
だが、
この国は五千年にわたり
この社会構造とともに存続してきて、
それを手放す用意ができていない。

この構造のどこに
美点があるのだろう?
美点などどこにもありはしない。
それはただただ醜く、おぞましく、
忌まわしく、
吐き気をもよおすほどだ!

人々はあまりにも長く
それと暮らしてきたので、
もう他のことは何も学びたくない....
ただそれだけのことだ。
彼らはそれとともに
生きてゆきたい。
彼らはそれがあると
安心することができる。
彼らはどんな変化も
毛嫌いしている。

いいかね、
この傾向は多かれ少なかれ
どんな人間のなかにもある。
あなたは変わりたくはない。
あなたは変化を恐れている。

なぜなら、
変化とともに
新たな挑戦が生まれるからだ。

そしてあなたは
新しい状況に対処できるかどうか
不安に思っている。
古いものならうまく扱えるし、
手際よくさばけるから、
古いものに
寄り添っているほうがましだ。
古いものは
意のままに操ることができる。

新しいものはどうなるかわからない。
思い通りになるかもしれないし、
思い通りにはならないかもしれない。

学ぶことができるのは
子どもたちだけだ。
子どもたちには
何も過去がないので、
しがみつくべき古いものが
いっさいないので、
いつでも喜々として
学ぶことができる。

大きくなればなるほど
学ぶことができなくなる。
十三歳位で、
人々は学ぶことをやめる。
それが彼らの精神年齢になる。

探求者であるなら、
あなたは絶えず
学びつづけなければならない。
生きることは学ぶことだ。
学ぶことはけっして終わらない。

死の瞬間においてすら、
探求者は学びつづける。
彼は死を学ぶ。

彼はいつでも
変わる用意ができている。

水は変化する要素を、
永遠の変化を、
流動的な現象を表している。

いつでも変化でき、
過去を忘れ、
過去を許すことができ、
瞬間とともに
進んでゆく用意のある者たちこそが
真の人間だ。

なぜなら、
彼らは冒険家だからだ。

彼らは生の美を、
生の祝福を知っている。

そして生は
その神秘をこのような人々に、
このような人々にだけ
明かしてくれる....
なぜなら、
彼らはそれに値するからだ、
みずからの手で
それを稼ぎ取ったからだ。

賭けることで、
彼らはそれを稼ぎ取った。
彼らには勇気がある。

水中にそよ風が吹く。

もしあなたが
水のような現象になり、
変化し、絶えず移り変わり、
動き、流れ、
けっして
過去や古いものにしがみつかず、
いつも新しいものを探し求め、
つねに新しいものを楽しんでいると……
「そよ風」が吹いてくる。

あなたは恩寵に包まれる。
あなたの実存は至福に包まれる。
そうなったら、
あなたの内側ではじめて
聖なるものが踊りだす……
「そよ風が吹く」とはそのことだ。

神はとてもやさしい。
神はけっしてあなたの扉を叩かない。
神の足音はけっして聞こえない。
訪れるときには、
神は音を立てずに、
ひっそりとやって来る。

あなたが
水のようになっていないかぎり、
神のそよ風が
あなたの上に
吹いてくることはない。
まず流動的になりなさい。

流動的でありつつけること....
これは
サニヤシンに対する
私のメッセージでもある。

そして、いいかね。
未来は
絶えず変化してゆく用意が
ある者たちのものになる。
なぜなら、
今や世界は
めまぐるしい速度で
変化しているので、
古いものに
しがみついている者たちは
大きな苦しみを
味わうことになるからだ。

彼らはこれまで
大きな苦しみを
味わったことがなかった。
むしろ逆に、
進んで変わろうとする者たちのほうが
ひどい苦しみをなめてきた。

これからは
状況が逆さになるだろう。
これからの時代は変化を愛し、
喜々として踊りながら
変わってゆこうとする者たち、
変化を祝う者たちのものになる。
そして、いつなんどき
変化の機会が訪れても、
彼らはそれを逃がさない。

未来は彼らとともに
あることになる。
歴史は大きな転換をとげ、
別の地平を進もうとしている。


Osho The Secret Of The Secrets