友人の---FB 投稿記事です(OSHO 講話の抜粋)

昔あるところに
優れた儒学者が住んでいた。
彼は八十歳に近い紳士であり、
その博学な知識と理解において、
彼の右に出る者はないと
言われていた。
ところが
彼の有する知識よりも
もっと深い、
新しい教義が
遠くで生まれたという
噂が広まった。
老齢の紳士は
それを黙認できなくなり、
この問題に黒か白か
決着をつけなければならない
と思った。
老齢にもかかわらず、
彼は長旅に出かけた。
数ヶ月もの厳しい旅路を終えて
目的地に着くと、
彼は自己紹介をして
来意を告げた。

主人は
新しい禅の流派に属する師だったが、
ただ次のような句を引用した。
「悪しき行いを避け、
 あたうるかぎりの善を行なう。
 これがあらゆる覚者(ブッダ)たちの教えだ」

これを聞いた
儒学者の老紳士はかっとなった。
「老齢の身に鞭を打ち、
 生命の危険を冒してまで
 長く険しい旅をしてきたのに、
 三歳の子供でもそらんじるような
 ささいな句を引用するだけとは!
 私を馬鹿にしているのか?」

だが禅師は応えた。
「貴方を
 馬鹿にしているわけではありません。
 確かに三歳の子供ですら
 この句を知っていますが、
 八十歳の老人でさえ
 それを実行できないことに
 思いを致してください!」

宗教が問題にするのは
知ることではなく、
それを生きることだ。
宗教とは生であり、
それを生きないかぎり、
それが何であるのか
何ひとつ知ることはできない。

そして宗教を生きるためには、
哲学をすべて落とし、
実際に試してみることを
はじめなければならない。
人は実験室に
ならなければいけない。

科学者の実験室は
外界にあるが、
宗教的な人の実験室は
その人自身の存在、
その人自身の肉体、
その人の魂、
その人の心だ。
科学者は
実験の対象となる事物に
精神を集中しなければならない。
科学者は目を開けて
仕事をしなければならない。
宗教の仕事は
目を閉じて
行なわなければならない。
自分自身に
精神を集中しなければならない。

そして
それは一筋縄ではゆかない。
というのも、
宗教の世界では
実験する者と
実験の対象が同じだからだ。
それゆえに
それは入り組んでいて、
風変わりで、
解釈しがたく、
非論理的なものになる。
宗教の世界では
知る者と
知られるものは同じだ。

科学の世界では
知る者は分離している。
知られるものは分離している。
ものごとは
明確に分けられており、
境界が定められている。

だが、
宗教では
あらゆるものが融合し、
互いに溶け合っている
知る者ですら
分離したままではいられない。
宗教は知る者から
遊離した知識など与えない、
知る者から
遊離した体験など与えない。
それが与えるのは
知る者の
エッセンスそのものだ。

宗教的な
探求者であるためには、
いっさいの哲学を
落とさなければならない。
先験的知識を
すべて落とさなければならない。
なぜなら、
先験的な知識は
すべて障害になるからだ。
それは問うことを妨げる。
問いかけは
不誠実なものになる
その最初の一歩から
問いかけは曇らされてしまう。

すでに
結論を出していながら、
どうして
問いかけることができるだろう?

キリスト教徒でありながら
宗教的であることはできない。
あるいは
ヒンドゥー教徒でありながら
宗教的であることはできない。
ヒンドゥー教徒でありながら、
どうして
宗教的でいることができるだろう?
ヒンドゥー教徒であるということは、
すでに結論を出していて、
何が真理か
決めてしまっているということだ。

そうだとすれば
問いかけてみても仕方がない。
何を問いかけるというのだろう?
あなたがやるのは、
すでに
結論付けていることがらの裏付け、
論証を探し出すことでしかない。
だが、
その結論は
間違っているかもしれない
わかりはしない。
その結論はあなたのものではなく、
社会から渡されたものだからだ。

社会はしきりに
あなたに結論を与えようとする。
あなたが自分で結論に到れるよう
意識を与えようとはしない。
あなたが意識的になる前に、
少しでも問いかけがはじまる前に、
社会は
ありとあらゆる結論を詰め込んで、
何がなんでも
その問いかけを阻もうとする。
なぜなら、
その問いかけは
社会にとって危険だからだ。

問いかけない人間は扱いやすい。
問いかけない人間は従順だ。
すなおに命令や指令を受け取り、
それに従う。
彼は法を尊重し、
因習を守る。

ひとたび誰かの心に
わずかでも信仰を吹き込めば、
薬物を飲ませたことになる。
信仰は麻薬だ。
彼はいったん信じ込むと、
どこまでも
しゃにむに信じてゆく。
やがて徐々に、
彼はその信仰が
自分自身の体験であると
思い込むようになってゆく。

信仰というのは
催眠のシステムだ。
あなたは子供に
「おまえはヒンドゥー教徒だ。
 おまえはヒンドゥー教徒だ」
とどんどん暗示をかけてゆく。
子供を寺に連れてゆき、
宗教的な、
いわゆる宗教的な儀礼
儀式を体験させる。
やがて子供は条件付けられ、
自分はヒンドゥー教徒であり、
ヒンドゥー教はすべて正しく、
それ以外の宗教は
すべて間違っていると
思い込むようになる。

そして、
同じことが
あらゆる社会で行なわれている。
あなたがたは
子供たちに麻薬を与えてきた。
子供の意識のまさに源が
毒されてきた。

そしてもし何かを信じたら、
それは真実のように見えてくる。
もし何かを信じはじめたら、
その裏付けとなるもの、
それを助ける証拠となるものが
続々と見つかるようになる。

あなたの自我がからんでくる。
真実かどうかだけでなく、
奥深くで問題になっているのは
「どちらが正しいのだろう?
 私だろうか君だろうか?
 私が間違っているはずがない?
 私が正しいにちがいない」
ということだ。

だからあなたは
自分を支えてくれるものばかりを
選び取る。
そして生はひじょうに複雑であり、
そこでは
ありとあらゆるものを
見つけることができる
あなたが選び取り、
決定したものは何でも見つかる。

あなたが悲観主義者であれば、
その悲観主義を裏付ける
ありとあらゆる論拠が
生のなかに見つかる。
あなたが楽観主義者であれば、
ありとあらゆる論拠を
手にすることができる。

生は二元的であり、
生は逆説に満ちており、
生は多次元的だ。
この世にこれほど多くの
哲学、主義、神学が存在するのは
そのためだ。
そしてどの神学も
独自の結論の殻に閉じこもり、
自分が一番正しいと信じている。

ようやく現代において
信奉者たちは
少しとまどうようになった。
これは大いなる祝福だ。
なぜなら、
彼らは他の信奉者たちの存在にも
気付きはじめたからだ。
今やヒンドゥー教徒
それほど得意になり、
自己満足してはいられない。
キリスト教徒の存在を
知っているからだ。
そしてキリスト教徒も、
自分たちだけが
真理の版権を手にしていると
信じ続けることはできない。
イスラム教徒もいるし、
道教徒もいるし、
仏教徒もいるということを
知っているからだ。
そして
誰も当てにならない。
現代はひじょうに混乱している
かつてなかったほど混乱している。

だが、
覚えておきなさい。
この混乱は大いなる祝福だ。
何かが途上にある。

何かとほうもなく重要なことが
起ころうとしている。
この精神の混沌(カオス)は
新しい夜明けのはじまりだ。

将来には、
人々は
イスラム教徒にも、
ヒンドゥー教徒にも、
仏教徒にもならないだろう。
人々は問いかける者たちとなる。
信仰はなくなり、
信仰の闇は姿を消しつつある。
これからは
誰も信仰をもたなくなってゆく。
人々は問いかけ、
見いだしたときに信頼するだろう。
信仰は借り物であり、
信頼はその人自身の体験だ。


Osho - The Secret Of The Secrets