…エゴ---

…友人が OSHO の講話(抜粋)を FBに投稿している記事です。(確認済み)


 世界は同じだ。
それはつねに同じだった........
めちゃくちゃで、
狂っていて、
正気ではなかった。
実際、
世界に起こった新しいことは
ひとつしかない。
それは私たちが
狂っているということ、
私たちがめちゃくちゃだということ、
私たちのところでは
なにかが
根本的にまちがっているという
気づきだ。

そしてこのこと......
この気づきは大いなる祝福だ。
もちろんこれは
単なる始まりにすぎず、
長いプロセスの
ほんのイロハでしかない。
単なる種にすぎないが、
この上もなく豊かな可能性を秘めた種だ。
世界が現在ほど
自分の狂気を
意識したことはかつてなかった。
世界はつねに同じだった。
三千年の間に
人間は五千もの戦争を戦ってきた。

この人類が正気だと言えるだろうか? 
人類史の中で人びとが
互いに戦わなかった時代を
思い出すことはできない。
宗教の名において、
神の名において、
あるいは平和、
人間性
宇宙的友愛の名においてまでだ。
醜い現実を覆い隠すための
たいそうな言葉! 
キリスト教徒は
イスラム教徒を殺し、
イスラム教徒は
キリスト教徒を殺し、
イスラム教徒は
ヒンドゥー教徒を殺し、
ヒンドゥー教徒
イスラム教徒を殺してきた。
政治的イデオロギー
宗教的イデオロギー
哲学的イデオロギー
殺戮のための単なるうわべの飾り、
正当化して殺戮する
みせかけでしかなかった。

 
そしてこういう宗教はすべて
宗教戦争で死んだ者には
 天国が約束されている。
 戦争での殺人は罪ではない。
 戦死は大いなる美徳だ」
と人びとに約束してきた。

これはまったく馬鹿げたことだ! 
だが一万年にわたる条件付けは
人類の血の中に、
骨の中に、
髄そのものの中に深くしみこんできた。
それぞれの宗教、
それぞれの国、
それぞれの人種が
「我われは神に選ばれた民だ。
 我われが最高であり、
 他の者はすべて我われより下にいる」
と主張している。
これは狂気だ、
そして誰もがこのために苦しんできた。

ユダヤ人は彼らが犯した
たったひとつの愚行の故に
この上もなく苦しんできた。
それは
「我われは神に選ばれた民だ」
という考えだ。

一度自分たちは
神の選民だという考えを持ったら、
他の民族に許されることはありえない。
他の民族もまた神の選民なのだから。
それにどうやって
それに決着をつけるのかね? 
どんな議論も決定的ではありえない。
誰も神の隠れ家を知らないのだから、
神に尋ねることもできない。
証人として神を
法廷に連れ出すわけにもいかない。
となると、
決着をつけられるのは
唯一剣だけだ。
誰であれ力のある者が
正しいことになる。
力が正義だった。
何世紀にもわたって
ユダヤ人は本当に苦しんできたが、
苦しみは彼らを変えなかった。
実際は、
そのために神の選民であるという
彼らの考えは強まった。

彼らに
「あなたたちは選ばれた民だ」
と告げるその同じ人たちが、
選民はたくさんの試練を、
自分の気骨を示すために
多くの火の試練を
くぐり抜けなければならないとも
教える。
私は神に祈る
ある年老いたラビの話を
聞いたことがある。

彼はひじょうに
正気の人間だったにちがいない。
彼は何年も何年も祈っていたが
なにひとつ求めることがなかった。
知っての通り、
祈りとは一種の小言のようなものだ。

毎日、
朝も、昼も、夕方も、夜も、
一日に五回も神に小言を言いつづける。
神は飽き飽きしてきて、
まったくうんざりしているにちがいない……。

ところが
そのラビはなにひとつ求めなかった。
そうでもなければ、
出口もあっただろう。
もしそのラビがなにかを求めていたら、
それが与えられて、
「とっとと失せろ!」
と追い払われていたにちがいない。
だが彼はなにひとつ求めるでもなく、
ただ祈るばかりだった。

ついに神は
「なぜお前はしつこく
 私につきまとうのだ? 
 なにが望みだ?」
と彼に尋ねた。

するとその年老いたラビは言った。
「ひとつだけです。
 そろそろ誰か他の人びとを
 選んでもいいときではないでしょうか? 

 どうか、
 誰か他の人たちを
 あなたの選民にしてください。
 私たちは充分に苦しみました!」

だがこれはキリスト教徒、
ユダヤ教徒と、
イスラム教徒、
ヒンドゥ教徒だけのことではない。
これまでに存在した
あらゆる人間たちがまさに同じだった。

民族的エゴ、
宗教的エゴ、
霊的エゴは、
個人のエゴよりはるかに危険だ。
個人のエゴは粗雑なものだからだ。
見れば解る。
誰でも解る程にあからさまなものだ。

ところがそのエゴも民族的
「ヒンドゥ教は偉大だ」
ともなると、
もう誰も自分のために
なにかを要求しているのだとは考えない。
間接的には実は、
「私はヒンドゥ教徒だから偉大だ、
 そしてヒンドゥ教は偉大だ」
と主張しているのだが。
これは間接的で、
微妙な、
ずる賢い方法だ。
「私が偉大なのは私が日本人だからだ。
 なぜなら日本人は
 太陽神の直接の子孫だから」
とか、
「私は中国人だが、
 中国人はもっとも文明化された人間、
 もっとも文化を身につけた人間だ」
とか。

西洋人が初めて中国の地に至り、
中国人を目にしたとき、
彼らは声を出して笑った。
中国人は風刺漫画のようだった。
人間というよりはむしろ漫画だった。
顔からわずか四、五本の毛が伸びているだけ。
しかもそれしか髭がないのだ! 
この中国人とは、
いったいどんな種類の人間なのだろう? 
その最初の西洋人は日記にこう書いた。
「我われはどうやら
 猿と人間の間の
 ミッシング・リンクを発見したらしい」
と。
その一方で中国人たちは
その日記になんと書いていたか?

中国の皇帝までもが
西洋人を見ることに大いに執心だった。
色々話を聞かされていたからだ。
西洋人たちは宮廷に招待された。
西洋人を尊敬していたからではなく、
いったいどんな種類の人間なのかと
見るためだった。
前代未聞のことだった。
そして皇帝は笑いをこらえられなかった。
西洋人を目にするやいなや彼は吹き出した。
西洋人たちはひじょうに気まずい思いをした。
「彼はなぜ笑っているのか?」
彼らにはこう説明された。
「あれは皇帝が敬意を払うやり方なのです。
 彼はいつも笑って、
 楽しみます。
 それが彼の客を歓迎するやり方なのです」
と。
だが真実は、
皇帝は彼らが人類だとは
信じられなかったのだ。

皇帝は廷臣たちに
「これはアフリカの
 ジャングルから連れてきたのか? 
 猿のように見えるが」
と尋ねた。
これがエゴの働き方だ。
相手はつねに考えられるかぎりの
最低のものにされる。
そしてその相手と比べて、
自分を高く持ち上げるのだ。

「日に日に世界は
 ますます狂っていくようです」
とあなたは言う。
それは正しくない。
世界はいつもこうだった。

たったひとつ、
新しいことが起こっている。
しかもそれは祝福で、
災いではまったくない。
人類史上初めて、
少数だが私たちが
これまで存在してきたやり方は
どういうわけかまちがっていると
人びとが気づき始めている。
私たちの基盤そのもので
根本的ななにかが
失われているにちがいない、
と。

私たちが正気の人類に
成長していくことを許さないような
なにかがそこにある。
私たちの
まさに条件付けそのものの中に
狂気の種がある。
子どもはすべて正気で生まれるが、
それからゆっくりゆっくり、
私たちは子どもを文明化する。
私たちはそれを
文明化のプロセスと呼ぶ。
私たちは子どもが
自分たちが属する偉大な文化の一部に、
偉大な教会、
偉大な国家の一部になるように育てる。

私たちの政治全体が愚かしいのだから、
子どもも愚かしくなる。
私たちの教育全体が醜い。
私たちの政治は野望を、
赤裸々な野心を意味するに他ならない。
それは権力への野望だ。
そして最低の種類の人間だけが
権力に興味を持つ。
深い劣等感に苦しんでいる人びとだけが
政治家になる。
彼らは自分が劣ってはいないことを
証明したい。
彼らはそれを他者に向かって
証明したい。
自分が劣ってはいないこと、
自分が優越していることを
証明したいのだ。

だがもし自分が優れているのなら、
その証明の必要がどこにある? 
優れている人間は
なにも証明しようとはしない。
彼は自分の優越性にただくつろいでいる。
それが老子が言っていることだ。
優れた人間は
自分の優越性を意識すらしない。
その必要はまったくない。

病んだ人間だけが
健康について考え始める。
健康な人は
けっして健康について考えない。
健康な人は
自分の健康について意識しない。
病んだ人間だけ、
病気の者だけがそれを意識する。



Osho - Come, Come, Yet Again Come