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 (OSHO 講話の抜粋)

誰もが
自由のもとに生まれ
にもかかわらず、
束縛の中で死んでゆく

生のはじめは
完全にゆったりと自然だ
が、
それから
社会がはいり込んで来る
それから、
ルールや規則や
道徳や掟という
いろいろな種類の
トレーニングが
はいり込んで来る

そうして、
その内発的な実存は
失われてしまう

人は自分自身のまわりに
一種のよろいのようなものを
かき集めだす
人は次第次第に
硬直しはじめる
内なるやわらかさは
もう見えない

自分の実存の
境界線のところに
ひとは
要塞じみた現象を
つくり上げる

身を守るために
傷つきにくいように
保身と安全のための
反応ができるように
そして、
実存の自由は失われる
人は
他人の目を見はじめる
彼らの是認
彼らの否定
彼らの非難
彼らの認識が
どんどんと
価値のあるものになって来る<他人>が規準になる
そして、
人は他人を真似、
従いはじめる
他人といっしょに生きるのは
避け難いことだからだ

そして、
子供というのは
とても柔軟だ
子供は
どのようにでも
形づくられ得る
それを、
社会が成型しはじめる
両親
先生
学校
そうして、
少しずつ
彼は一個の<人格>になってゆく
実存じゃなく

かれは
すべてのルールを学ぶ
保守主義者になるか
それも束縛だ

それとも、
反逆者になるか
それもまた
別な種類の束縛だ

もし保守派、正統派、
いわゆるスクエアに
なるとしたら
それはもうひとつの束縛だ

彼はそれに反発して
ヒッピーになることもできる
反対の極端に走ることもできる

しかし、
それもまた一種の束縛だ
なぜならば
反発というのは
それが反発する当のものと
同じものに
依存しているからだ
あなたは
世界のさいはてまで
行くかもしれない
が、
心の奥深くでは
あなたは同じルールに
逆らっているにすぎない

ほかの人は
それに従っている
あなたは
それに逆らっている
しかし、焦点は
同じルールに
当てられたままだ
行動派であれ
革命派であれ
みな同じ舟に乗っている
彼らは互いに対立し
背を向け合って
立っているかもしれない
だが、
乗っている舟は同じだ


宗教的人間というのは
反動でも
革命家でもない
宗教的人間というのは
ただただゆったりと自然だ
彼は何かに
賛成しているわけでも
反対しているわけでもない
彼はただ
彼自身であるだけだ
彼には従うべきルールも
否定すべきルールもない
ただ単に、
彼はルールなど
持っていないのだ

宗教的人間というのは
彼自身の
実存の内に自由なのだ
彼は習慣だの
条件づけだのという鋳型など
何も持っていない
彼は文化に
飼い馴らされた存在じゃない
だからといって、
文明化されてなくて
未開だというのでもない

彼は文明や文化の
最高の可能性だ
だが彼は
文化づけされた存在じゃない
彼は彼の覚醒のもとに
成長したのであり
どんなルールも必要とはしない
彼はルールを超越してしまったのだ

彼が正直であるのは
それがルールだからじゃない
ゆったりと自然でいたら
彼はただ
正直であったというだけのこと
たまたま正直と言うことになったのだ
彼には慈悲がある
それは彼が
「慈悲深くあれ」という
教理に従っているからじゃない
それは違う
ゆったりと自然でいたら
彼はただ慈悲が
まわり中にあふれ出すのを
感じるだけだ
彼の側で為されることなど何もない
それは彼の覚醒への成長の
副産物にすぎないのだ
彼は社会に
賛成でもなければ
反対でもない
彼はただ
それを超えているのだ
彼はふたたび子供になった
完全に未知の世界の子供
新しい次元の子供
彼は生まれ変わったのだ


Osho -Tantra: The Supreme Understanding