saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…友人のFB投稿記事です---。

 (OSHO 講話の抜粋)

例えば、
波は
大海に浮かんでいるが、
波のひとつひとつが、
自分は
大海から切り離されていると
誤って思い込んでいる。

波は
分離しているように見える。
波は
自分をごまかすことができる。
まわりには
ひじょうにたくさんの波があり、
ひとつひとつの波が違って見える。

私の波の方が
あなたの波より
高いこともあれば、
低いこともある。

どうしてそれが同じでありえよう。
波は
大海を
深く覗き込むことができない。
知っているのは表面だけだ。

あなたの波は消えつつあり、
私の波は若く、
うねりつつある。
あなたの波は
浜辺に辿り着いているが、
私ははるか沖にいる。

だとしたら、
二人が共に同じだなどと
どうして私に思えるだろう?

だが、
そう思おうが、思うまいが、
私たちは同じだ。

「私」として知られている波は
自我ではない。
それは自己ではない。
この波は
大海が
波であることを知った。
波はたんなるうわべの現象・・
見かけ、運動にすぎない。

私が「私」と呼ぶこの波は、
波のない状態、
波のない大海こそが
現実であることを知っている。
あなたの波ですら
切り離されていない。

私は、
すべてを結び合わせているものを
知った。
あなたはそれを「自己の自覚」と
呼ぶかもしれないが、
私は違う。

私はそれを「無自己の自覚」と呼ぶ。
なぜなら、
これこそが
あらゆる了解の本質だからだ。
これは無自己だ。

だが、
私が言おうとすることを、
あなたは理解していることだろう。

私は言いたいことを
伝えきれていないかもしれないし、
私が伝えたいのは、
私が言ったことでは
なかったかもしれない。

私の言葉を
私が指し示すものと
混同してはいけない。
常に私の言ったことを
深く覗き込みなさい。

語られたことではなく、
ほのめかされたことに
常に耳を傾けなさい。

語ることはできないが、
示し、
ほのめかすことのできる
事柄がある。

深遠なるもの、
究極なるものはすべて、
示すことができるだけで、
決して語ることはできない。

そして私は、
語ることのできないことを
語っている。
だから、
私の言葉について考えないこと。
常に言葉は
無意味なものとして
投げ捨てるがいい。
そうして、
言葉なき意味のなかへ、
沈黙の意味のなかへ
深く入ってゆきなさい。
それは常に言葉の裏にある。

言葉はいつも死んでいるが、
意味はいつも生きている。
あなたは、
言葉に対して
開くことはできるが、
知的な理解だけでは
決して開いてゆくことができない。

知性だけでなく、
自らの全存在をかけて
初めて
あなたは開くことができる。

ときおり知性が
理解を誤ることがある
というのではない。
むしろ
知性は誤解してばかりいる。

知性が
ときおり誤りを犯す
というのではなく、
知性は
過ちそのものだということだ。
それは
過ちを犯してばかりいる。

何が語られていても、
それに共感するがいい、
理解しようとしないこと。

それを
あなたの内側に深く入らせなさい。
それに対して
傷つけられやすく、
開いているがいい。

それを
ハートのなかへ深く入らせなさい。
知的な障壁を
つくりだしてはいけない。
あなたの全実存が
参与しているときに、
あなたは知るだろう。
あなたは
理解しないかもしれないが、
知るだろう。

理解するだけでは充分ではない。
知ることが必要だ。
ときおり理解したり、
理解したと思い込むことがある。
そうなったら、
知ることを妨げる障壁が
つくりだされる。

知性は理解するが、
実存は知る。
知性は部分にすぎない。
本物はあなたの実存だ。

知るときは、
自らの血で知る、
自らの骨で知る、
自らの鼓動で知る。

理解するときは、
マインドのメカニズムで
理解するだけで、
それほど深いものではない。
マインドとは装置、
生き延びるために必要とされる
実用的な装置にすぎない。

それは
他者と関わらねばならない場合には
必要とされるが、
「一なる境地」、
霊的な死と復活に対しては
障壁となる。
それは生き延びるために
自然が与えた装置にすぎず、
究極の真理を開示する
道具ではない。
隠された神秘を知る
道具ではない。
そして、
神秘は隠されている。

だから、
私が何を言おうと、
そのことについて考えないこと。

家に帰り、
そのまま眠りにつきなさい。
ただそれを内側に入ってゆかせ、
自分のなかに浸透させるがいい。

自分を守らず、
開いていなさい。
自分を守るたびに、
知ることが妨げられる。

私が言っていることは、
それがあなたの内奥の実存に届いて
初めて、知られ、理解されるだろう。
これがシュラッダ、
「信」という言葉の意味だ。

「信」とは信仰ではない。
信仰は知的だ。
人は知的に
信仰することもできるし、
知的に
不信仰であることもできる。
どちらも知的だ。

「信」は
まったく知的なものではない。
それは全一なる神秘的な参与、
隠された神秘とひとつであること、
ジャンプだ。

だから、
何を語っていようと、
私は理論にはまったく関心がない。
哲学にはまったく関心がない。
私の関心は実存的な跳躍にある。

私が語るのは、
ただあなたを
語りえないものへと導くためだ。
私が言葉を使うのは、
ただあなたを沈黙へと導くためだ。
私があることを主張するのは、
ただ主張しえないものを
ほのめかすためだ。

私の言葉は、
何かを表現するというよりも、
表現しえないものを
ほのめかすためにある。

共感しながら聴きなさい。
共感のみが
開口部になりうるからだ。
何であれ私が言ったことを
自分の内側に落ちてゆかせなさい。

それは花を咲かせるだろう。
種子が深みに入ってゆけば、
やがて花が開く。

そして、
花が開くとき、
あなたは語らずして
語られたことを知るだろう。
あなたは語られながら
語られずに残されたものを知るだろう。


Osho - I Am The Gate