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 (OSHO 講話の抜粋---)


意識を
無意識の中に
墜落させるのはごく容易だ。
意識は、
無意識の
ほんの小さな断片に
過ぎないからだ。

人の実存の
十分の一が意識で、
その実存の
十分の九が無意識だ。
ほんの小さな断片が
意識になったに過ぎない。
それとても常に動揺している。
いついかなる瞬間にも
墜落しかねない。
いとも簡単だ。

酩酊の中で起こるのがそれだ。
酒を飲めば、
意識は無意識の中に墜落する。
だから、
あらゆる時代、
あらゆる風土、
あらゆる国々で
酒にあれほどの魅力があるのだ。
これは麻薬を飲んでも起こる、
意識が無意識の中に墜落する。

考えることが止まるのだから
それは素晴らしい。
眠りは素晴らしく、
人は実にたくさんの夢を見る。
また夢を見るのが上手なら、
麻薬は素晴らしい夢を見せてくれる。
どんな夢よりも
もっと空想的で色彩に富み、
もっと光輝やく夢を。
天国にも、
夢の国にも行ける。
だが、
実在には向かっていない。

LSD、 マリワナ、 メスカリン、
その他どんな麻薬も、
よい眠りを
与えてくれるに過ぎない。
そして
その素敵な眠りの中で、
人は夢を見る。
その夢は色鮮やかで、
それにひきかえ、
自分の〈生〉が
あまりにも貧しく、
あまりにも惨めなので、
人は
その惨めな〈生〉を生きるよりは、
その夢を生きたいとさえ思う。
もしそれしか
選びようがないものなら、
人は
この惨めな〈生〉を生きるよりは、
美しい夢の中に
生きることを選ぶだろう。

この〈生〉は、
悪夢のようなものだ。
たとえ
麻薬が与えようとしているものが、
光輝く、色鮮やかな、
三次元の夢に過ぎないとしても、
飲めばいい。
この人生に何があると言うのか。
〈生〉が あまりにも
泥にまみれているために、
人は夢の方を選ぶ。

麻薬、 アルコール、
その他さまざまな
人を酔わせるものが、
宗教的な人々によって
常に使われてきた。
だが
それらの薬物によって、
実在に入って行くことは
決してない。
それを使えば麻痺状態に、
昏睡に陥るだけだ。
その昏睡の中で、
夢を見ることもある。
あまり神のことばかり
考えていたら、
神を見ることもあり得る。
人は自分の夢を
投影することもできるからだ。
夢とは指揮し、
誘導することができるものだ。

あまり
キリストのことばかり
考えて来ていたら、
麻薬がきいている間、
キリストが自分の前に
現れることになる。
これは自分のマインドが
演じているゲームだ。

クリシュナに
あまり執着していたら、
唇に横笛をくわえた彼が歌い、
踊りながら
自分の前に立つことになる。
ヒンドゥー教徒
クリシュナの信者が
LSDを飲めば
クリシュナを見ることになる。
キリスト教徒なら、
イエスを見る。
そして仏教徒なら
仏陀を見るだろう。
これはマインドの投影だ。

現実は惨めだが、
夢を追ってはならない。
夢を追えば道はひとつしかない。
意識を再び無意識に戻す道しか。

ある小さな部分が
無意識から
浮かび上がって来たのだ。
そして、
これこそが人間の美しさだ。
苦悩と歓喜の共存、
だかそれこそが
人間の美しさなのだ……
広大な無意識の海の中で、
ひとつの島になったということが。
この島は高く高く成長し、
大陸にならなければならない。
麻薬を使えば、
それは再び水の中に
沈むことになる。
再び獣の、
あるいは樹木の生を
生きることになる。
それはそれで美しいが、
あなたたちが
そうなる価値はない。
それでは、
失うものがあまりに多すぎる。
あなたは、
実在に到達し得た
かも知れないのだ。
その島は、
大陸になり得たかもしれないのだ。

麻薬だけでなく、
他にも意識が無意識に戻るのを
手伝う微妙な手段がある。
それは
音楽によってもなされ得るし、
お経を唱えることでも
なされ得る。
絶えずひとつの呪文を
繰り返せば、
人は眠りに陥る。
単調なものは何でも
昏睡をもたらすからだ。

こういうものは微妙な手段で、
一見、麻薬には似ていない。
あらゆる寺院や教会で、
それは行われている。
そして、
寺院も教会も麻薬に反対している。
彼らは、
自分達が何をしているのか
知らないのだ。

彼らが使っているのも
微妙な麻薬だ。
LSDやマリワナほど
荒っぽくはないが、
やはり麻薬だ。
なぜなら、
一定の言葉を
絶え間なく唱えれば、
それは人を眠らせ、
それ以外にどんなものも
与えはしないからだ。

人は寛ぐ。
詠唱そのものがある
深い倦怠をもたらす。

同じ言葉を、
ラーム、ラーム、ラーム、と、
いつまでもいつまでも
いつまでも続ける。
人はどうなるか。
新しいことが起きていなければ
マインドは覚めていられない。
そうでないと、
マインドは眠ってしまう。
何か新しいことがあれば
マインドは目覚める。

何も新しいことが起こらず、
ただラーム、 ラーム、 ラーム、
ばかり唱えていたら、
しかもそれが
いつまでも、いつまでも、
永久に繰り返すばかりだと
知っていたら、
マインドは眠気を催す。

母親なら
誰でもこれを知っている。
子供が眠らない時は母親はいつも、
歌の 一節を、 極めて単純な、
ほんの二、三語からなる一節を繰り返す。
同じことを何度も何度も歌う……
子守り歌だ。
これが呪文になって、
子供は寝つく。
マインドは同じだ、
子供であろうと、
老人であろうと、
何の違いもない。
マインドは子守唄によって寝つく。
プロセスは同じだ。

考えることは
やめなければならないが、
無意識になることに
よってではない。
より意識的になること、
もっと油断なく
意識していることによって、
考えることを
やめなければならないのだ。
考えることに
流れ込んでいるエネルギーを
意識の中に注ぎ込み、
自分の中に〈見ている者〉が
立ち上がるように。

だから、いいかね、
考えることは
お経を唱えることによってではなく、
その思考過程を〈見ている者〉に
なることによって、
止めなければならないのだ。
それに目を向け、
それを見守っている者、
丘の上の見張り、
目をやり、
見ている者に…。
深く見て、
言葉を貫くなら、
言葉は消え始める。
ある切れ目が、
合間が来る。
雲が切れて、
青空が見える。
あなたは油断なく意識し、
感じている……
昏睡してはいない。
無意識が今まで以上に、
意識の中に引き上げられる。
炎はより大きく、
勢いよく燃え上がる。
そして、
あなたは
もっと多くを見、
もっと多くに触れ、
もっと多くの匂いを
嗅ぐことができる。
あなたの行為は、
ある新しい質を……
〈神聖なるもの〉の質を帯びる。
仏陀のような人が
人に触れる時は、
常にその接触の質が
他の人とは違う。
あなた方も触わるし、
時には違いを感じることもある。

偶然手が誰かに触れたとしよう。
そんな時、
あなた方の存在は
その手の中に流れてはいない。
その時その手は死んで、
閉じている。
死んだ手で
ただ 「やあ」と言っているだけだ。
手は差し出されたが、
実は差し出されてはいないのが
相手にも感じられる。
社交辞令だったのだ。
その手は生きておらず、
暖かくはなかった。
こちらと出会い、
解け合ってはいなかった。

また、
愛の中で
手が差しのべられることもある。
それは融合だ、
その中を エネルギーが流れている。
それは開口部だ。
その手を通して
その人の実存が会いに来ているのだ。
それは暖かく、生きていて、
あなたを信頼している。
仏陀のような人が人に触れる時は、
その接触はまったく別のものだ。
その質は違っている。
それは、
意識が全面的、
絶対的であれば、
あらゆる行為は常に
全面的なものになるからだ。

覚者が触るときは、
ただその接触になる。
彼はもはや何者でもない。
その全存在が
その接触になるからだ。
彼はその中に流れ込み、
そこ以外のどこにもいない。
彼はその接触の中にいるのだ。

その瞬間、
彼はもはや目でない。
もはや耳ではない。
その瞬間、
彼の全存在が
その接触に変容している。
彼は全身全霊で接触になっており、
その一触れで
人は自分が輝くのを感じる。
エネルギーが自分の中に流れ込む。

用意ができていなければ、
衝撃を受けることさえあり得る。
用意ができていれば、
その人は歓び、
それに喜悦するだろう。
覚者が人を見る時、
彼はただただその目になっている。
そうでしかあり得ない。
その内面が、
分裂していないからだ。
あなた方が見る時は、
見る一方で、
他にもたくさんのことをしている。
思考が続き、
分裂し続ける。
その目は全面的ではない。

覚者が人を見る時、
それは全面的だ。
その目は燃える太陽のようになる。
相手をさし貫き、
その人の実存に穴をあけ、
直接相手のハートに進むだろう。
もし、
相手が それを許すなら、
その人は二度とふたたび
同じではいられない。

あるいは、
相手が閉じたままでいる
こともあり得る。
すると、
彼にはその人を
貫くことはできない。
たとえ触れても、
彼は死体に触れているのだ。
相手は 閉じたままだ。

そこに意識と行動があれば、
その意識と行動は
必ず全身全霊のものになる。


Osho - Neither This Nor That