saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…FBに 投稿された友人の記事を転載します。

(OSHO 講話-抜粋)

マインドとは
ほとんど海のようなもの、
波に次ぐ波だ。
ある波はより高く、
ふたつの波の中間には
抑鬱(よくうつ)がある。
この絶えざる上下運動から
抜け出るための方法が
ふたつある。
 
一番易しいのは、
自分が有頂天に
なっているときが
醒めているべき瞬間だと
いうことだ。
意気消沈の中に、
苦悶の中にあるときは、
醒めていることは
より難しくなる。

喜びとともに、
至福とともに
流れているとき、
それこそが
醒めているべき瞬間なのだが、
人びとは
ちょうどこの逆をやる。
幸せであるときには、
覚醒のことなど
誰が気にするというわけだ。
そして
苦悶の中にあるときは、
たしかに
醒めていることについて、
苦悶から出ることについて
考え始める。
だが未だかつて、
苦悶から直接
抜け出られた者はいない。
 
最初に、
人は有頂天から
外に出なくてはならない。
もしあなたが先ず最初に、
自分が嬉しい瞬間に
醒めていられたら、
意気消沈や
落ち込みは来ない。
外に出る扉は、
有頂天からだ。
だから
これが一番簡単な方法だ。

 幸福でいて、醒めていなさい。
 喜んでいて、醒めていなさい。
 愛していて、醒めていなさい。

「こんなのは邪魔っけだ。
 すごく嬉しいんだから」
と言って、
覚醒を
脇に押しやってはならない。
覚醒は邪魔になる。
が、
そうではない。
初めのうちは
そう見えるかも知れないが、
じきにそれがあなたの歓喜
より高い頂上に連れていくことが
分かるだろう。
究極的には
覚醒と歓喜はひとつになる。
すると落ち込み、
意気消沈の瞬間、
苦悶は消える。

 
ふたつ目は、
必要もないのに
少数の人びとが従っている方法で、
これは難しい。
だがドイツ人である
あなたにとっては、
もしかしたら
このふたつ目が
正しい方法かもしれない。
自分が苦しんでいるときに、
醒めていようとするのだ。
そしてあなただけでなく、
歴史を通じて
世界中のたくさんの人びとが
それを試みてきた。
苦しみがない場合には、
彼らは
ただ醒めているだけのために
苦しみを創り出した。
断食をすると、
それが苦しみを創り出す。
寒い冬に
服も着ずに裸で暮らす、
すると
それが苦しみになる。
人間は実にさまざまなものを
発明する。
いろいろな方法で
自分を痛めつける。
 
たまに、
そのような体験からも
人が覚醒することがある。
それは
無用に非人間的なことだが、
ほとんどすべての宗教が
それを説いてきた。
どんなことでも
難しいことが
人間のマインドにはアピールし、
何であれ
明らかで単純なことは
それを忘れる傾向がある。
 
だがここでは、
あなたは
ドイツにいるわけではない。
またたとえ
ドイツにいたところで、
あなたは
ドイツ人になろうと
しているわけではない。
私とともにいる以上、
ドイツ人であるとか、
インド人であるとか、
中国人であるとか、
そういう病をすべて
捨てなければならない。
ただ人間であれば
それで充分だ。

私はあなたたちに
易しいことを教える。
私はあらゆる種類の
無用な苦しみに賛成しない。
もしそれが
避けられないのであれば
別だが、
私たちはその不可欠の
苦しみさえも変容させようと
努力してきている。
 
私に言わせれば、
もっとも容易な扉とは
何であれ
あなたが楽しいと思うものだ。
踊ること、
歌うこと、
そして
踊ったり歌ったりしている間、
醒めていることだ。
 
我を失わず、
そして自己同化しないことだ。
 
マインドの古い癖は、
何事にも同化することだ。
どんなことが起こっていても、
マインドはすぐに
それに自己同化する。
マインドは
鏡のようには機能せず、
フィルムのように機能する。
何であれ前に来たものが
それに刷り込まれる。
鏡は空っぽのままだ。
人びとが来ては去り、
上がり下がりはあるが……、
鏡はどんなものにも
我を失って自己同化したりしない。
 
ここでは私は、
祝うことを、
楽しむことを教える。
それこそが
あなたの究極の目覚めに
もっとも近い扉であることを
知っているからだ。
喜びに溢れた人が、
存在に近い人だ。
彼の喜びが
大きければ大きいほど、
彼と宇宙のハートとの
距離は小さい。

苦悶の中では
あなたは独りだ。
宇宙のハートは、
はるかに離れている。
あなたの苦悩が
その距離を作ったのだ。
だから
自分が苦悩しているときは――
それは人間的なことであり、
ときたま起こることなのだが――
油断なく醒めていなさい。
そしてもしあなたが、
ダンスがあなたの上に降り、
花々があなたの上に降り注ぐとき、
醒めていられるようになったら、
何かがまずくいったときに
醒めていることは
まったく難しくなくなる。
あなたは
見張りであることができる――
脇に立って、
自己同化せずに。
 
これが鏡のやり方だ。
そしてこれは
あなた方のいわゆる宗教家や
精神分析者、
あるいはいわゆる賢い人びとと
言われる人たちよりも
深く人間の本性を
知った人たちの方法だ。
だが
それはあなた次第だ。
もしあなたが
自己虐待を楽しむのなら、
自分の覚醒の訓練に
惨めな瞬間を選ぶといい。
だがあなたが
理解しており知性があれば、
あなたはもっとも易しく
もっとも近い道を選ぶだろう。

いずれにせよ、
何を選んだところで
結果は同じだ。
覚醒はあなたを
自己同化から自由にする。
あなたは
両方をやってみることができる。
少数だが、
幸福であるときに
我を失う人びとがいる。
おそらくその人たちにとっては、
自分が幸せであるときに
醒めていることは難しい。
マインドは
「なぜ醒めている必要がある? 
 こんなに至福に満ちた幸せな瞬間に
 宗教を持ち込むことはない。
 お前は若いし、
 健康で恋をしているんだ、
 こんな瞬間に
 なぜ教会を持ち出すんだ?」
と言う。
たしかに、
年老いて、
棺桶に片足を突っ込んだところで
あなたは神を思い出す――
だがそれでは遅すぎる。
そうなってからあなたは神に祈る――
だがそれでは遅すぎる。

だが
私といっしょにいれば
神はいない。
あなたを許せる人など
誰もいないし、
祈ることに何の意味もない。
あなたが
変わらなくてはならない。
あなたは変容のメカニズムを
理解する必要がある。
そしてそれはごく単純だ。
 
早朝の散歩で
小鳥たちが楽しげにさえずり、
樹々が朝日に照りはえ
あなたが平安を感じるとき、
油断なく醒めていなさい。
どんなことも
無意識状態の中で
起きるべきではない。
といっても
「ごらん、
 小鳥たちがさえずっている。
 なんと樹々が
 幸せそうなことか。
 見てごらん、
 何という平和な様子だろう……」
と独り言を言いなさい
というのではない。
それでは
すべてぶちこわしだ。

 言葉にする必要はない。
 体験しなくてはならない。

そして
楽しむ価値があると思った
瞬間に出会ったら、
その瞬間に醒めていなさい。
ゆっくり、
ゆっくり醒めていることが
あなたの一部になるだろう。
そしてその
醒めているというワークが
自己同化を破壊するのだ。

ときには
あなたは落ち込むだろう――
暗雲が来て、
生命が無意味に見える……
何の意味もない。
喜びの瞬間に得られ、
強められ、
結晶した
あなたの油断のなさが、
あなたの応援に来てくれる。
あなたは遠く離れていて、
深い奥底を知ることになる。
「このすべては
 周りで起きているだけで、
 私に起きているわけではない ――
 しかも
 これは変化し続ける。
 私の意識は
 まさに鏡としてとどまり、
 映し出すだけで同化はしない」
と。
 
だが古い習慣は、
なかなか死なない。
おおいなる努力が必要だ。
私たちは最初の最初から
それらを教え込まれてきたからだ。
これまでに
別の生涯があったのだとすれば、
科学者の計算によると私たちは
少なくとも
千万年にわたる
条件付けを担っている。
そして
目覚めに関する限り、
光明に関する限り、
もっとも危険な条件付けは
自己同化だ。
 
ほんの一瞬のうちに
あなたは自己同化してし、
それもまた過ぎ去ることを
忘れてしまう。
ほんの一瞬待っていれば……。
前のボーイフレンドが
離れていったのかね? 
喜んだらいい、
「すごいチャンス」と。
それが
私が教えていることだ。
新しいものが
やって来ているのだから、
古いものは
去るに任せたらいい。
それには
少し時間がかかる。
そのスペースの中で、
惨めでいるか
油断なく醒めて
待機しているかは
あなた次第だ。
 
だが毎日それは続く。
朝、あなたの気分は悪く、
そんな気分を
以前何度も味わったことを
知っている。
それは
そのままではいないのだから、
気にすることはないのだ。
悪いままにしておきなさい。
なぜ気にする? 
なぜそれに
注意を払うのかね?――
というのは、
注意はすべて
それを養うからだ。

ただ見守っていなさい、
その古い気分に
ショックを受けさせなさい……。
 
「それがどうしたの? 
 あなたは
 いつでも歓迎してきた……、
 何かが変化した。
 彼女は静かに坐っていて、
 古い嫌な気分があることを
 気にかけてもいない」と。
 
だがあなたは自分の生と
そのパターンを覚えてはいない。
それらの上がり下がりは
あなたに起こっているのではない。
それらはただマインドの中で
起こっているに過ぎない――
そして
あなたはマインドではない。
あなたは脇に立って、
そのゲームのすべてを
見守っていることができるのだ。
何か道を選ぶがいい、
だが何度も何度も同じ罠に
落ち込む古い癖を捨てなさい。
一度なら、
未知の領域を動いているのだから
許されるだろうが、
ニ度も同じ罠に落ちるとなったら、
そして三回、
また千回となると……! 
それではまるで何が起ころうと
同じ罠に落ちることに
決めてしまったみたいだ。
それは罠ではない、
それはあなたの決断だ――
あるいはもしかしたら、
あなたにはまったく意識がなくて、
夢遊病者のように
闇の中を歩いているだけ
なのかもいれない。
むしろ彼らの方が
上手く歩くかもしれない。
だがこの古い習慣は
変えなくてはならない。
しかもそれを変えるための
努力というような問題はない。
「私は変えよう」
と決断することはない。
単純な理解、
全状況に対する
単純な明晰性があれば、
古いものは変わる。
だが年輩の人間でさえ
まったく未熟な
子どものようにふるまい、
自分が本当は
一人前ではないことを証明している。
どうやら彼らは
年齢を重ねただけで
成熟してはいないらしい。

小さなアーニーの両親は
恐慌状態だった。
彼らの4歳の息子が
流暢に話し始めたところで、
それは可愛かったのだが、
ほとんどあらゆる言葉の中に
「くそったれ!(ファッキング)」
という単語を使うのだ――
これは実に下品なことだった。
何とか子どもにそれを
止めさせようとしてみたが、
どれも効き目がなく、
ついに彼らは買収することにした。
 
両親はアーニーに、
もし罵り言葉を止めたら
ジャネットの誕生パーティに
連れていってやれるのだがと言った。
父親はジャネットの母親に、
もし下品な嫌な単語を聞いたら
すぐにアーニーを
家に送り返してくれと頼んだ。
 
土曜日の2時半に
アーニーは出かけたが、
3時になると泣きながら戻ってきた。
 
「下品な言葉を
 使わないようにって
 言ったじゃないか」
と父親は叫んだ。
「くそったれ言葉なんか
 使わなかったよ」
とアーニーは叫んだ。
「くそったれパーティは、
 次のくそったれ土曜日までないんだ」

自分の振る舞いを見たら
大して違わないことが
分かるだろう。
同じことがずっと継続している。
理解し始めなさい――
単純な理解だ。
この沈黙に
ただ気づきなさい。
内側で
言葉を使ってはいけない。
裁いてはいけない。
 
何であれ起こっていることが
ただ映されているようにしなさい。
そしてそれが、
私たちが
上がり下がりに同化せずに、
自分の生に
バランスをもたらす方法に
ならなければならない。


Osho - Om Shantih Shantih Shantih