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…友人の OSHO 講話/抜粋記事をシェアします。

(講話/抜粋)

「宗教は人々にとって阿片だ」
という
カール・マルクスの有名な言葉がある。
彼は宗教については何も知らなかった。
なぜなら、
宗教を除いた他の一切が、
中毒性を持つ阿片だからだ。

富への奔走、
地位への奔走....
これらはみな麻薬だ。
それらの陶酔から目覚めるための
唯一の手段が宗教だ。

わたしたちは
夢の中に生きている。
それゆえ
真実と通じ合わない。
真実を知らないかぎり、
わたしたちは幸福になれない。
幸福とは、
わたしたちが真実を
知り始めることによって生じる
芳香だ。

夢の中に生きるなら、
苦悩を創造するばかりだ。
なぜなら
実在しないものから
幸福は生まれないからだ。
存在しないこれらの夢は、
繰り返し辛苦の種となる。
あまたの手段を講じ、
幸せになろうと試みる事はできる。
だが、
それは起こらない。
ないものはない。
在るものだけがある。

「宗教」とは、
在るものの探求だ。
「非宗教」とは
ないものへの欲望だ。
存在しないもの、
存在し得ない数多くの物事を、
人間は求めてやまない。
しかし、
何とか
自分の夢を叶えたところで、
あなたの内側は依然として空虚だ。
食事をした夢を見て、
満腹になった人がいるだろうか。
どうして
夢に渇きが癒せるだろう。
自分の夢で自分を欺き、
自ら巻き込まれ、
夢の中で暮らすようにすれば、
夢はあなたを忙しくさせ続ける。
しかし、
達成することも、
岸にたどり着くこともない。

夢に岸はない。
真実には岸がある。
問題は、
夢の中で駆けまわっていると
真実から
遠ざかってしまうということだ。
夢は真実の対極だ。
だから、
夢の中で
駆けまわっているとすれば、
刻一刻と自分自身を
真実から
阻(はば)んでいることになる。
これらの夢は決して成就されない。
そして
成就されたはずのものが
阻まれている。
自らの欲求のために、
自らがなれたものになれずにいる。

深い処では
すでにあなたであるもの、
あなたがなれるのは
そういったものでしかない。
種は花になる。
だがそれは内在する花だ。
今のところ、
それは隠されていて、
ある日現れる。

神聖なるものは、
すでに人間の内に潜んでいる。
たまにその潜んでいるものが姿を現す.....
帰依者の中に、
光明を得た神秘家の中に出現する。

あらゆる人間存在は神性の種だ。
だが、
わたしたちのエネルギーは、
その他の無数の方向に流れてしまう。
それゆえ種はエネルギーを
まったく受け取ることができず、
培(つちか)われない。

気づいたことがあるだろうか。
市場に向かうのと
寺院に向かうのとでは、
あなたの意気込みが違うことに。
あなたは、
お金を数えるときと同じほど
心を傾けて数珠を繰らない。
あなたは
地位を欲するときと同じほどの
熱意を込めて、
神聖なるものを求めたことがない。
神聖なるものの扉にすら、
世間的な願い事をする。
あなたの愚かしさには限界がない。
神聖なるものの扉にすら、
世間的な要求のためだけに向かう。
寺院に向かうのは、
実のところ世界における
必要のあるときだけだ。
富、名声、威信、地位
といった必要が。
神聖なものにすら、
相も変わらず持ったことのない、
常日頃欲望しているものを乞い求める。
自分の夢のためにすら、
神聖なるものの助けを探し求める。

自分が求めるものは
一切無益であり、
ただの屑にすぎない、
たとえ
それを得たところで
何にもならないということ、
これが完全に明白になって初めて、
あなたはの目は神聖なものに向かう。

そもそも、
あなたがそれを得ることはない。
得たとしても、
あなたはまだ何も得ていない。
地球全体を手に入れて
世界の統治者になっても、
実際に何を得るだろう。
依然として内側は、
現在のあなたとまったく変わらない。
惨めで不安で、動揺し、苦悩し、困っている。
おそらく、
少々問題が増えるだけだ。
世界の問題を一手に
引き受けることになるのだから。
そうなると厄介事が尽きない。

宗教は陶酔ではない。
阿片ではない。
宗教以外の一切が
中毒性を持つ阿片だ。
宗教、宗教的であること、
それこそが、
これらの中毒症状から人を救う
唯一の手段だ。
宗教性こそが唯一の解毒だ。

だから初めに
注目すべき点はこれだ。
何が夢で何が真実か。
試金石はどこにあるのか。
どうやって見ているものを夢と知るか。
どうやって求めているものが、
自らの夢の一部にほかならないと
認識するか。

これについて、
一番に言えることは、
どんな場合にせよ
真実は求める必要がないということだ。
求めることができるのは、
何にせよ夢だ。
求める必要があるのは
非真実のみだ。
真実はただ在る。
それに向けて、
ただ目を開いているだけで充分だ。
求める必要はない。

・・・
探求し始めるなら、
たちまちにして
あなたはそれを失うという
有名な老子の言葉がある。
まさに「探求」という
その言葉の意味こそ、
自分の持っていないものを
探すということだ。
在るもの、
それはあなたを
全面的に取り巻いている。
内側にも外側にも.....
いたるところ。
それは
内側の探求者でもある。
探し求めるものは
内側にあって、
それが
あなたの目を通してみている。
それを目にするのは、
自分の外側ばかりではない。
それは
あなたの全身の毛穴に浸透する。
全呼吸に浸透する。
すでに自分が持っているものを、
何故探し求めるのだろう。
必要なのは、
ただそれを見ることだけだ。

わたしは同じことを
あなたに言おう。
探し求める必要はない。
必要なのは、
神聖なるものを
当然の権利として主張すること、
それだけだ。
探求するその瞬間、
あなたは逸する。
探求するということは、
単にヒンドゥー教の神、
イスラム教の神、
キリスト教の神を
探し求めているということだ。
探求するということは、
概念としての人の神を
探しているということだ。
神を見いだしたければ、
神についての概念の
一切を投げだしなさい。
解放しなさい、
探求さえも。
座りなさい、
空っぽになって。
探求のない意識において、
神聖なるものが明かされる。
探求から解放された意識には、
どんな波も立たないからだ。
何の欲望もなければ、
どうやって波が立つだろう。
達成すべきものがないとき、
行くべきところがないとき、
どうすれば緊張、
落ち着きのなさがあるだろう。
この究極の静穏の状態において、
神性は全面からあなたを取り巻く。
それはすでに
あなたを取り巻いていた。
そして、
この静穏の状態に在ることで、
あなたがそれに
気づくようになったのだ。

しかし、
わたしたちは、
神聖なるものを探求するどころか、
つまらぬ頼み事を
しに行くぐらいのものだ。
祈っているときに
頼み事をするなら、
あなたは罪を犯している。
祈りながら
要求するぐらいなら、
祈らない方がまだいい。
なぜなら、
それこそ、
これを証明しているからだ....
あなたがまだ
神聖なるものについて
何もわかっていないということ、
自分のつまらぬ欲望のために
神聖なるものを
利用したいということを。
裁判に勝たなくてはならない、
仕事がうまくいかない、
店が倒産しそうだ、
妻がいない....
そんな頼み事をするために、
神聖なるもののところへ
行ってはならない。


Osho - Last Morning Star